氷菓二次創作「早乙女の君」

  旧暦の五月のことを皐月と言う。そして皐月に降る雨を五月雨と言うそうだ。今なら六月にあたり、さしずめ梅雨と一言で片付けてしまうのだろうが、都会の人間にとっては憂鬱な日々なのだろうが、農家にとっては、とても大事な月にあたる。
 神山地方はこの月に田植えを行う。早稲ならもっと早いが、消費者にとって好評な作柄は早稲ではない。この月に植えられるのだ。
 千反田の農家を継がなくても良くなったえるは、本来ならこの作業に関わらなくても良いはずだった。だが、全くと言う訳には行かないらしい。
 二人で京都のアパートで夕食を採っていると、
「六月なんですが、数日神山に帰らなけれななりません」
 えるが、そんな事を口にした。俺は大して難しくも考えずに
「ああ、用事があるなら帰れば良い。土日なら俺も都合がつくぞ」
 そんな受け答えをしたら
「違うのです。神事なのです。早乙女にならなくてはなりません」
 いきなり、そんな事を言いだした。こちらとしては全く要領が判らない。
「あの、もっと筋道を立てて話して欲しいのだが……」
  えるの悪い癖で、用事を伝える時にいきなり核心から話し始めてしまう。
「ああすいません! いつもの悪い癖が出てしまいました。ちゃんと最初からお話致しますね」
「ああ頼む」
 俺の言葉を聴いてえるは、語りだした。
「千反田の農業の殆どは事業化されていて、わたしが何かをする必要は無いのですが、ひとつだけわたしが行わなくてはならない事があるのです。それは、水梨神社に納める奉納米を作る田圃には千反田家の女が行う事柄があるのです」
「千反田の家の女が行う事?」
「はい、それはその田圃に稲の苗を植える神事なのです」
「それは男では駄目なのか?」
「はい、古来から米作りと女性とは深く関わって来ました。稲の育ちを保証する田の神信仰と密接な関係があったのです。特に神山では行いませんが、他の村々では、田植に際し特定の田圃に祭場を設けて田の神を迎えて、その前で作業を行うことをする所もあるそうです。だから、一種の神聖な祭儀なんです」
「それは理解出来たが、それと女性とどのような関係があるのだ」
「はい、田植に女性が重要な役割をもつことが多いのは、稲の豊作が女性の霊的な力によってもたらされるという観念があったからだそうです。女性の生殖力が稲に霊的な影響を与えるという考えだそうです」
「そうか、そう説明されれば、頷ける事も多いな。それで、事業化とは関係なく千反田家の催しとしてお前が田植をするのか?」
「そうなんです。わたし早乙女になるのです!」
 そう言い切ったえるの表情は何処か晴れやかで、自分がこの神事に深く関わる事を楽しんでいる様だった。
「それで何時行うのだ?」
「そうですね。六月の第二週あたりですかね」
 それを聞いて少しホッとした。と言うのも月末や月初なら仕事の都合でどうなるか判らないからだ。第二週なら都合がつく。
「俺も行く。行って、お前の早乙女の姿を目に焼き付ける」
「うふふ、しっかりと目に焼き付けて下さいね」
 えるはそれは楽しそうに呟くのだった。

 六月に入り神山地方は梅雨入りとなった。重く低く垂れ込めた雲が空いっぱいに広がっている。昨夜、仕事が終わって帰宅してから京都を出発した。
「明日はせめて五月晴れとは行かなくても、五月雨は勘弁して欲しいな。雨でも田植をするのか」
 ハンドルを操作しながら隣のえるに尋ねると
「神事ですから、必ず雨が降ることは無いと思います。晴れとは行か無くても、心配はしていません。今まで雨が降った事は無いそうですから」
 そんなものなのだろうか? それが事実なら、それこそ霊的な力が働いている証拠なのでは無いのか?
 そんな事を考えたが口に出すのは止めた。なぜなら隣のえるは、雨が降る事なぞ無いと信じているからだった。
 夜遅くに陣出の千反田邸に到着した。鉄吾さんを始め皆に歓迎されたのは言う間でもない。
 翌朝になり、思ったより早く目が覚めた。やはりお天気が気になるのだろうか。隣で寝ているえるを起こさすに寝床を抜け縁側に向かう。そっと雨戸を開けて外の様子を伺うと、どうやら雨は降っていない感じだった。
「お天気が気になりますか? 大丈夫ですよ」
 その声に振り向くと、えるの祖母だった。高校の時以来幾度か逢っているが、二人だけで話をするのは始めてだった。
「ええ、どうしても気になってしまいまして」
「古来、千反田の女が神事で田植えをする時は雨が降った事は無いのですよ。でもそれは、水梨神社に納める奉納米を作るからでは無いのです」
「え、神事とは直接関係が無いのですか?」
「田植をする女性を早乙女と言いますが、元々は田の神に奉仕する特定の女性をさしたのです。だから、この早乙女そのものが霊的な力を持っているのです。古くは各村々を廻って田植をする早乙女の集団がいました。彼女らが行く先々では梅雨時だと言うのに何故か雨は降らなかったそうです。そうなのです、早乙女そのものに既に霊的な力が備わっているのです。だから神に守られたこの行為は天にも守られているのですよ」
 おばあさんはそう言って、俺の疑問を解いてくれた。古来から居たと言うプロの早乙女の集団は面白いと思ったし、興味も湧いた。今度じっくりと調べてみたいと思った。

 さして広くは無い田圃に水が張られている。この一角で採れた米が水梨神社に奉納される。田圃の脇には稲の苗が並べられた箱が置かれていて、田植えをする準備が整っていた。今日、早乙女となって田植をするのは、えるだけでは無かった。陣出の女性が十名程参加するのだそうだ。今日は彼女らが早乙女の集団なのだ。
「どうやら準備が出来たみたいだな」
 鉄吾さんが千反田邸の方を眺めながら呟く。その言葉に振り返って見ると、揃いの格好をした集団がこちらにやって来る。紺絣(こんがすり)の着物に赤襷(あかだすき)、白手拭(しろてぬぐい)をして菅笠(すげがさ)という格好だ。これが早乙女の晴れ姿なのだろう。その中には俺の愛妻のえるも含まれていた。
 俺の姿を認めると
「晴れ姿ですが、少し恥ずかしいです。でもちゃんと見ておいてくださいね」
 えるはそう言って、他の女性と一緒に田圃に入って行った。そして独特の歌を口ずさみながら稲を植える作業が始まった。俺はその光景を眺めながら、突然こんな歌を思い出した。
 五月雨そそぐ山田に
 早乙女が裳裾濡らして
 玉苗植うる 夏は来ぬ

「夏は来ぬ」と言う歌の二番の歌詞である。まさに俺の目の前で行われている行為そのものでは無いかと思った。
 早乙女となった我が新妻を今夜は労ってやりたいと想った。

                                                                     <了>
    

氷菓二次創作「誕生日とお祝い」

  昨夜まで降っていた雨は夜半に止んだようです。今は朝日に残った、雨の雫がキラキラと輝いています。
 わたしは窓を開けながら、朝の冷えた空気を胸いっぱいに吸い込みました。今日は奉太郎さんの誕生日です。高校の同級生の中でも一番早く誕生日が来ました。あれは確か高校二年生の時でした。古典部全員で奉太郎さんの家にお祝いに伺った事がありました。確か発案者は大日向さんだっと思います。
 彼女は古典部を一度退部しましたが、わたし達が三年生に進級した時に再入部してくれました。彼女なりの清算が済んだとの事でした。そのあたりの事情はわたしは詳しくは知りません。深く関わった奉太郎さんも、その事に関しては口をつぐんでいます。わたしは奉太郎さんが、わたしに教えてはならないと判断した事については、詳しく知りたいとは思いません。そのあたりの事は奉太郎さんの判断を信じているからです。
 冷たい風が入って来たので、部屋の温度が急激に下がりました。奉太郎さんが目を覚ましました。
「何時だ? 早いな……」
「雨が止んでいたので。思わず外の景色を眺めてしまいました」
「いや別に良いのだが、今日は休みではあるまい?」
「はい、ゴールデンウイークは後半は研究の当番なので行かなくてはなりません」
「そうか、俺はカレンダー通りだから、今日は仕事だ」
 パジャマを脱ぎながら仕事の格好に着替えて行きます。わたしも着替える事にします。籍を入れてから未だひと月経っていません。神山での披露宴が終わったばかりなのです。
「すぐ朝ごはんにしますから」
「悪いな。簡単なものでいいぞ」
 奉太郎さんの悪い癖です。すぐに簡単なもので良い、と言うのです。妻としてはしっかりと朝食は採って欲しい所なのです。
 ご飯はタイマーで炊けています。お味噌汁を作ります。今日はほうれん草と油揚げにしました。目玉焼きでハムエッグを作ります。それに実家で漬けたお新香と海苔です。
「納豆は召し上がられますか?」
「いや今日はいいよ。それより、こっちに来て一緒に食べよう」
 奉太郎さんが手招きをしてくれたので、わたしも向かいに座り、ご飯を戴きます。思えば昨年の末にはたった四ヶ月後に、こうしているなんて信じられませんでした。
「ちょっと待って下さい」
 わたしは、そう言って手を伸ばして奉太郎さんの口元に付いてるご飯粒を取りました。
「お弁当が付いていましたよ」
 そう言って、そのご飯粒を自分の口元に入れます。こんな時、わたしは心の底から幸せを感じるのです。
「今日は何の日だか判りますか?」
 わたしの意味深な言葉に奉太郎さんは首を傾げながら
「さぁ~何の日だ」
 考えています。本当に判らないのでしょうか?
「あなたの誕生日です。おめでとうございます!」
「そうか、この前まで覚えていたのだが、今朝は忘れていたよ。ありがとう! 二人だけで誕生日を迎えられるなんて、何だか夢みたいだよ」
 食事を終えて、出る支度をします。わたしは研究室に着けば白衣に着替えますので、特別な格好はしません。普段着の延長線上の服です。奉太郎さんは背広ですね。男の戦闘服でしょうか。
「今日は早く帰れるのですか?」
「ああ、今日は定時には帰れるよ」
「じゃあ、お祝いしなくちゃですね」
「楽しみにしてるよ」
 そう言って別れました。

 研究室では日常の事をします。研究観察の植物の世話をして記録すると殆どの仕事は終わりです。
 その時、メールが入りました。予定通りの時間に到着する旨でした。実はわたしは、奉太郎さんの誕生日に、あるサプライズを計画していました。幸いに明日から数日はわたしも休めます。京都に来る二人と一緒にこの街を廻りたいと考えたのです。
 記録を済ませてしまうと何もすることがありません。研究のパートナーに引き継ぐ事を整理したメモを残しておきます。そして、わたしは二人を迎えに京都駅まで出向きました。
 新幹線のホームではこだま号が到着する旨をアナウンスしています。二人は岐阜羽島から新幹線に乗ったのでした。
 定時丁度にこだま号が到着しました。すぐに二人が降りて来ました。
「ちーちゃん元気そうで良かった。神山での披露には参加できなくてごめんね」
「いいんです。あれは内輪だけでしたから」
「千反田さん。改めておめでとうございます! これは僕達二人からのささやかなプレゼントだよ。後で開けてみてね」
「まあ、本当にありがとうございます! 本来なら来て戴くだけで申し訳無いのに」
「いいのよ。わたし達も結局、新婚旅行はしてないから、これがそれの代りなのよ」
「そうだよ僕達も京都を楽しむつもりなんだ」
 もうお判りでしょう。二人とは、摩耶花さんと福部さんなのです。新婚旅行をなさっていない二人に奉太郎さんの誕生日と言うことで京都にお招きをしたのです。
 幸い、お二人は喜んで承諾してくれました。狭いですが、我が家に泊まって戴いて京都を観光して貰うのです。その前に今夜は懐かしの古典部四人でお祝いをしようと言うのが、わたしの企みなのです。
「折木の奴驚くかな」
「摩耶花、ホータローはもう千反田さんなんだよ」
「いいじゃない。わたしにとっては永遠に折木なんだから。それにあいつに『福部さん』なんて言われたら身の毛がよだつわよ」
 摩耶花さんはそう言って笑っています。確かに二人が違う名前で呼びあったら、かなりおかしな光景になるでしょうね。
 アパートに帰りながら買い物を済ませます。
「わたしも手伝うからね」
 今夜は摩耶花さんも手伝って戴けるので凝ったものが作れそうです。

 定時には帰れると言っていたので、そろそろ帰って来る頃だと思います。明日からは奉太郎さんもお休みですので今夜は少し騒いでも良いでしょう。階段を登る音が聞こえます。三人は口を閉じで黙ります。その次の瞬間
「ただいま~、あれ何か靴が多い気が……」
「折木お帰り!」
「ホータロー、やっと帰って来たね。誕生日おめでとう!」
「あれお前たちどうしたんだ?」
 懐かしい旧友との出会いに奉太郎さんの表情が崩れて行きます。
 わたしは、そこで事情を説明しました。
「そうか、それで俺の休みを何回も確認していたんだな」
「そうそう、お二人からプレゼントを戴いたのですよ」
 開けてみると、わたしと奉太郎さんの名前の入ったクリスタル・ロックグラスでした。
「二人で仲良く使ってね」
 その夜は皆、高校生に戻っていました。


                                                 <了>

テケツのジョニー 5

 オイラは場末の寄席のテケツに住むジョニーと言うサバトラの猫さ。オイラの飼い主は寄席で切符を売っている姉さんなんだ。オイラにはとても優しくてオイラも大好きなんだ。
 寄席は基本休み無しで営業している。例外は大晦日だけ。これとて、翌日からの正月興行の準備で従業員は休み無しだけどね。
 寄席は基本「噺家協会」と「噺家芸術協会」と言う二つの団体が十日間交代で興行をしている。この二つに所属していない噺家は出られないのさ。但し、大の月の三十一日だけは寄席を貸し出すので、その他の団体が借りれば出られる事もあるのさ。これを「余一会」と呼ぶ。先月の余一回は立山流の会が行われた。ここは結構人気者が居る団体なのでこの寄席も結構人が入っていたな。
 寄席に住んでいると目が肥えると言うか下手でやる気の無い噺家の高座は聴く気も起きないが、実は金魚以外にもオイラが注目している噺家が居るんだ。そいつは何でも食べる仕草が抜群に上手い。噺は下手ではないが、特別上手い訳ではないのだが、食べ物が出て来る噺になると、俄然冴えを見せる。最初はオイラはピンと来なかったのだが、このあたりを縄張りにしている野良猫のパピヨンが
「たまには落語を聴かせてくれよ」
 と頼んで来たのでオイラは
「ああ良いよ。でも噺の途中で鳴いたりしたら駄目だぞ」
 と言うとパピヨンは
「判っているって。俺の方がお前より世間を知ってるんだぜ」
 そう言い返えされてしまった。確かにパピヨンは世間の事を良く知っている。オイラが初めて寄席の外に出た時も、世間の事をオイラに色々と教えてくれた。何故パピヨンと言うのかと言うと耳が大きくて尖っているから、犬のパピヨンみたいだからだそうだ。元は飼い猫だったらしいが、飼い主が老人で亡くなってしまったらしい。それから野良になったそうだ。
 そのパピヨンと一緒に高座を見ていたら
「こいつ、食べる仕草が抜群に上手いな。他は駄目だけどな」
 そう言っていたのだ。それからオイラも注目して見ているのだ。
 でも寄席に二つ目の噺家が出るのは半年に一回ぐらいだ。それも大勢の仲間と交代で出るので十日間でも二~五回ぐらいしかない。だから普段は他で高座に上がる機会を自分で作っているのだそうだ。
 名前を三金亭大柳と言って二つ目になって八年目だそうだ。あと数年で真打の声が掛かる経歴なんだ。
 大柳は大勢居る二つ目の中でも最近注目されて来たのか、寄席に出る機会が少しずつ増えて来たんだ。ウチでも二月に一度ぐらいは出るようになった。それも交代ではなく一人で十日間を任せられている。そんな状況を知ってパピヨンは
「ほら、俺が前に言った通りだろう。あいつは面白いよ。噺はまだまだだけどな」
 そんな事を言って自慢している。
 今日から始まる芝居でも大柳は「食いつき」で出る事になっている。「食いつき」とは中入り後で最初に出る位置の事を言う。何故そう言うのかと言うと、中入りの休憩の後は未だ弁当を食べている客がいたり、トイレや煙草を吸いに出て戻って来ていない客が居たりしてざわざわしているんだ。そんな中で演じるのはかなりの技量が要るか、若手で極端に元気が良い者に限られると言う訳なんだ。大柳は声も体も大きいし、何よりその食べる仕草の上手さで客を取り込むのが評価されたそうだ。

 今日もパピヨンがやって来て
「大柳の出るところだけ覗かせてくれよ」
 そう頼むので快諾したのさ。二階席の一番上の席の脇にある照明のライトがある押入みたいな空間にオイラとパピヨンが並んで座っている。休憩が終わって緞帳が上がった。めくりには「大柳」と書かれている。オイラだって寄席に住む猫さ、寄席文字ぐらいは少しは判る。姉さんが膝にオイラを乗せて教えてくれたんだ。
 出囃子の「勧進帳」が鳴って大柳が出て来た。ニコニコと愛想を振りまいている。
「え~お暑い中ようこそのお運び、ありがとうございます。もう噺家一同。寄席の従業員も大喜びでございます」
 挨拶をして、簡単なマクラを振ると噺に入って行った。どうやら今日は「蕎麦清」らしい。この噺は清さんという賭蕎麦というのを職業にしていると知らない八五郎達が無謀にも清さんに賭蕎麦食べ比べを挑むのだが、最初は簡単に負ける。悔しいので段々エスカレートして遂に五両という金額になってしまった。百枚食べれば五両貰えるのだが、流石に清さんも自信が無い。その場は言い逃れしてしまった。
 その後、本職の商売で信州に行き、蕎麦の食べる修行等をして江戸に帰ろうと山道を歩いていると山中で蟒蛇(うわばみ)が人を食べる所に出くわしてしまった。人を簡単に飲み込んだ蟒蛇だが苦しがる。でも傍に生えていた草をぺろぺろ舐めると、あら不思議、大きな蟒蛇のおなかが小さく元通りになってしまった。これを見ていた清さんは「あの草は強力な消化薬だ」と思いこみ、これさえあれば幾らでも蕎麦が食べられると、その草を摘んで江戸に帰って行った。
 江戸に帰って早速、賭蕎麦を申し込まれると、快諾して賭が始まった。何とか九十枚までは食べられた清さんだったが残り十枚がどうしても入らない。そこで、「風にあたりたい」と言って縁側に出して貰った。そして、こっそりと懐から、あの草を出してぺろり……
 八五郎達は何時まで待っても清さんが戻って来ないので、さては逃げたかと障子を開けてみると、そこには蕎麦が羽織着物を着て座っていた。
 と言う噺なのだが、大柳は蕎麦を食べる仕草が上手い!
 猫のオイラでさえ感心をしてしまう。パピヨンはオイラの横で
「これを見ていたら、蕎麦が物凄く美味しいものだと思うだろうな。まあ、実際、旨いものだけどな」
 そんな事を言って感心している。オイラは正直、蕎麦は食べた事は無いが、大柳の仕草を見ていると食べたくなってしまった。大勢入った客席からも
「帰りに蕎麦食べて行こうか?」
 なんて声が聞こえる。その昔、黒門町こと八代目文楽師匠は売店の甘納豆を売りつくしたそうだ。「明烏」という噺で甘納豆を食べるシーンがあるのだが、その食べる見事さに客が売店に甘納豆欲しさに殺到したそうだ。文楽師匠は噺も抜群だったそうだが、大柳も何時の日かそうなって欲しいとオイラは思うのだ。
 高座が終わって帰る時に二匹で出口で大柳を待っていた。
 大柳は芸人と言うには若干地味な格好で出て来た。出口でオイラとパピヨンを見つけると
「おお、二匹とも今日は聴いてくれていたね。ありがとうな」
 判っていたのかと感心をしたので
「にゃーん」と鳴いて出来を誉めてやった。
「ありがとうな。明日も鳴いてくれるように頑張るよ」
 大柳は大きな体を揺すって場末の街に出て行った。オイラとパピヨンはそれを見送るのだった。

氷の音

61582_1500720112「カラン!」
 人の居ない静かな店に、グラスの氷が溶ける音が響き渡った。
 その音に気がついて顔を上げると向かいの席に座っていた女性は居なかった。
 薄っすらと漂う彼女の付けていた化粧の香りが物悲しかった。少し前までその女性は僕の彼女だった。
 溶けた氷は彼女が飲んでいたレモンスカッシュの入っていた氷だった。解けてグラスの底に落ちた様が、まるで今の僕の気持ちのようだった。
『何が悪かったのだろうか? 僕には彼女と恋人で居る資格なんか無いのだろうか?』
 そんな想いが心に渦巻く。僕の何が彼女を怒らせてしまったのだろうか?
 怒らせた、と言うのは少し違うかも知れない。彼女は僕の返事を聞く前に席を立ってしまったのだから……。
 交際して、足掛け三年になる。ついさっきまでは順調だったのだ。今年の末には婚約して、来年には結婚する……そんな想いを抱いていた。恐らく彼女の胸の内も、それほど違わないと思っていた。実際、言葉の端々にもそれが伺えたからだ。
「わたしと趣味とどちらが大事?」
 彼女が最後に僕に問うた質問だ。
 僕は直ぐには答えられなかった。だって、彼女と趣味なんて比べられるものでは無いからだ。少なくとも僕の思考回路はそう出来ている。
『大事な彼女と自分が中心の趣味では比べる価値観が違う』
 素直にそう思った。そして答えた
「そんな、比べられないよ」
 重い時間が経過して、彼女が大きなため息をついて席を立ったのだ。そして踵を返して店から出て行ってしまった。「さよなら」と一言だけ残して……。

「どうですかねえ?」
「陳腐だな。五十年前だったら褒められたかもしれんが、今では素人のネット作家でもこれよりマシな文章を書く。お前一応プロの作家なんだから、もう少しマシなものを書いて欲しいな。書き直しだ」
 僕の書いた文章が印刷されたA4の原稿の束を、先輩は無造作に突っ返した。それを受け取って
「次の締切は何時ですか?」
 僕の質問に、咥えていたタバコを灰皿に潰して
「明後日の午前十時だ。それまでに俺が納得出来るモノを書けなかったら、この話は無かった事にして貰うからな。この陳腐な文章じゃ無いけど、溶けて無くなると思いな」
 その言葉を胸にしまって、炎天下の街に出た。自分の部屋には帰りたく無かった。エアコンの調子が悪く、ロクに冷えない部屋で創作はしたく無かった。何処かクラーの効いた場所でこの文章を推敲したかった。
 結局、行きつけの喫茶店に向かう事にする。先輩の勤務している出版社から地下鉄で一駅の場所にある店だ。
 財布を探って見ると持ち合わせが少ない事に気がついた。Suicaの残高は僕が部屋に帰る分しか無かったはずだった。結局、喫茶店まで歩く事にした。距離にして一キロと少し。十五分も歩けば到着するはずだった。
 正直、七月の炎天下に東京の街を歩きたいとは思わない。でも今の僕にはそれしか選択する事が出来なかった。
「いらっしゃいませ」
 聞き慣れた声が迎えてくれた。お金が元心許無いのにこ、の喫茶店に来たのには理由がある。僕はこの店で飲み物を飲める回数券を持っているのだ。メニューの中から五百円以内のものなら回数券で飲めるのだ。回数券の残りは五枚はあったはずだった。
 要するに僕はお金が無いので節約したいのだ。今日、先輩に見せた原稿が採用されたら、原稿料が入るので、楽になるはずだった。取らぬ狸の皮算用では無いが、正直宛てが外れたのだった。
 いつもの席に座って、回数券を見せて「レモンスカッシュ」を頼む。ウエイトレスさんが「かしこまりました」と言って回数券を一枚千切って行った。出されたグラスの水を一口飲む。炎天下を歩いて来た者にとっては心地よい冷たさが喉を通り過ぎる。中に入っていた氷の欠片の一部を口に入れて噛み砕くと一層、その心地よさが増した。
 黒い自分の鞄からポメラを出す。ポメラと言うのはテキストだけを入力出来るツールで簡易パソコンみたいな奴だ。僕は、外で創作をする時はかならずこれを使う。
 ネットに繋がらないので創作に集中出来るのだ。結構愛好者は多く、新機種が出ると話題になる。最近D200という新機種だ出たのだが、少し価格が高いので今の僕には買えない。僕が使っているのは一つ前の機種のD100という機種だ。これも新型が出るので格安になったので買ったものだ。新しい機種はかなり評判が良いみたいだが、今の僕にはこれで充分だ。創作活動においては不便さは感じない。
 出先で、入力して部屋に帰ってPCに移して推敲、校正する。だからポメラさえあれば僕にとっては何処でも書斎になりうるのだった。
「おまちどうさまでした」
 ウエイトレスさんが僕が注文したレモンスカッシュを紙のコースターの上に置いてくれた。
「あ、ありがとうございます!」
 形ばかりの礼を言うと彼女は
「良くわからないけど、お仕事、余り上手くは行って無いみたいですね」
 そんな事を言われてしまった。
「そんな事判るのですか?」
「判りますよ。毎日のように見ていれば」
 ここには、ほぼ毎日来るが、彼女にそんな事まで見られているとは今まで思ってもいなかった。
「それは知りませんでした」
「だって、わたし、先生の作品、結構買ってるんですよ」
「え、僕が作家の端くれだって知っていたのですか? マスコミになんか全く出ないのに……」
「だって著作のカバーの扉に作者近影って載っているじゃありませんか」
 言われて見ればその通りだった。最近は自分の姿を載せない作家も居るが僕はそんな事はしない。というより、そんな事も思いつかなかった。
 半分笑顔を見せながらウエイトレスさんはカウンターの方に帰って行く。その後ろでマスターが笑っていたのが印象的だった。
 二人の笑顔を見て、何か良い作品が書けるような気がした。その時グラスに入ったレモンスカッシュの氷が「カラン」と音を立てた。


                   <了>

カラスよお前は……

0121 ここの所、庭の隅に置いた猫の餌を目当てにカラスの姿を見かけるようになった。人が見ていない時に餌を喋んでいるらしい。
 どうして、そう思うのかと言うと、猫の姿を見かけ無い時でも入れ物に入れた餌が減っていたからだ。
 最初は、ゴミの袋を破って中の残飯を漁る野良猫に困り、その傍に猫の餌を置いた事が始まりだった。
 数匹の野良猫はゴミを漁るのを止めて餌を食べる様になった。ここで目的は達成されたのだが、その副産物として、猫の餌を他の動物も狙うようになった事だった。その代表がカラスだったという事だ。
 猫の食べ残した餌を狙って朝方に来るのだ。朝に来るカラスだから「明烏」と言いたいがそんな粋なものではない。
「カアーカアー」と朝から鳴いて人の安眠の邪魔をする。猫は黙って食べて行くので世話なしなのだが、鳥と言うか特にカラスは煩くて仕方ない。
 カラスが食べ散らかした後を色々な鳥がやって来る。雀を筆頭に、椋鳥、ヒヨドリ、オナガ等色々な鳥がやって来ては猫の餌を喋んで行くのだ。当然鳴き声も聴こえるが、カラスほど人の感に障りはしない。
 それが最近、そのカラスに鳴き声が二種類ある事に気がついた。始めは単に二匹のカラスが来ているのだと思っていたのだが、どうやら違うらしいと気がついたのだ。
 カラスに詳しく無い人の為に一応書いてみるが、都会に生息しているカラスには基本的に二種類あり、「ハシボソガラス」と「ハシブトガラス」という種類のカラスが居るのだ。
 この二匹の違いは明瞭で、クチバシが細く長いのが「ハシボソガラス」で逆に短く太いのが「ハシブトガラス」である。
 元々、人里に住んでいたのは「ハシボソガラス」で、これは大体大人しいとされている。かの「七つの子」のカラスはこの「ハシボソガラス」だと言われている。
 元々は山に住んでいたのが「ハシブトガラス」で、これは元来狩りをするので攻撃的で気が荒いと言われている。
 昔は、住み分けられていたのだが、山の環境が悪くなり餌が少なくなった「ハシブトガラス」は山里に降りて来たのだ、そうして大人しい「ハシボソガラス」のテニトリーに侵入したのだ。
 大人しい「ハシボソガラス」は逆に山に棲家を求めたり、「ハシブトガラス」の来ない地域に避難したりして暮らしている。
 あなたの街はどちらのカラスが居るか見て見るのも面白いかも知れない。

 ある日の朝、カラスの声で目が覚めて、庭を覗くとカラスが猫の餌を喋んでいた。元々人の姿を見ると一時的に避難するので、カラスには構わずガラス戸を開けると、案の定驚いたカラスは飛び立ってしまった。
 普通ならそこで終わりだが、飛び立ったカラスは戻って来て塀の上に止まってこちらを見ているのだ。
「なんだこいつ?」
 そう思って近づいても逃げる素振りをしない。『図々しい奴」だと思ったが、逃げないのでは仕方ない。荒っぽい事をしてカラスに逆襲されるのは御免だ。
 そのカラスのクチバシが短くて太い事に気がいた。
「こいつ『ハシブトガラス』か、どうりで図々しいと思った」
 そう呟くと、カラスは首を傾げて俺の言葉を聴いているような素振りをした。
 カラスは俺が家の中に入ると直ぐ様餌を喋み始めた。
 別な日の事である。空が曇って「雨模様」の朝だった。その日もカラスの声が聴こえた。だが何か違う感じなので庭に出て見ると、カラスが一羽、猫の餌を喋んでいた。その姿を見て何時も来るカラスとは違うと直感した。喋んでいるクチバシが長がかったので「ハシボソガラス」だと思った。躰も「ハシブトガラス」に比べるとスリムというが細い。
 俺の姿を見て少し驚いた様子だったが、最後まで餌を喋んでから俺の姿を目に止めた感じだった。それから大きく首を縦に動かすと、羽を広げて飛び立って行った。俺には礼をしたように感じた。
 それから注意深く観察していると、「ハシブトガラス」が来てる時は「ハシボソガラス」は決してやっては来ない。
 だが「ハシボソガラス」が居る時に、たまにだが「ハシブトガラス」がやって来て「ハシボソガラス」を追っ払ってしまう事がある。この時は何故か「ハシブトガラス」を憎いと思ってしまう自分に気が付き可笑しくなった。
 猫の餌を取られる事には違いが無いのに……。
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