蛍が舞う

306830783099306a304430db30bf30eb7d75-2 子供の頃、夏休みの楽しみと言えば、母の実家に遊びに行く事だった。
 当時は何回も電車を乗り換えて行った記憶もあり、見渡すばかりの田圃だったので、かなりの田舎なのかと思っていた。だが、高校生の時にその実家に住んでいた祖父が亡くなって葬式に行った時に、思っていたほど田舎ではないのだと判った。
 もしかしたら、俺の小学生の時代から高校生になるまでの数年間で発展したのかも知れなかった。なんせ当時は夜になると田圃の上で蛍が妖しく乱舞するのが信じられなかったからだ。その時、生まれて初めて飛んでいる生の蛍を見た。その興奮と衝撃は今でも体のどこかに残っている気がする。
 祖父が作ってくれた即席の虫かごに捕まえた数匹の蛍を入れたのだが、その蛍は朝には死んでいた。夜の間は綺麗に光っていたのだが、朝見た虫かごの中は無惨な様子を呈していた。子供心に『あのまま飛ばせていれば良かった』と思った。
 祖父の葬式の時は真冬だったので蛍は居なかったが、祖母の言うにはその頃には蛍の数もめっきり少なくなっていたそうだ。
 実はその時が数年ぶりの母の実家だった。中学一年の時が最後で、冬になると祖父や祖母は東京に住んでる子供の家に泊まり歩いていたせいで、こちらから行くと言う事はしなかったのだ。
 結局、それが田舎に行った最後となった。一人暮らしをさせられないと、母の兄弟が相談した結果。比較的裕福な暮らしをしている一番下の叔父が引き取る事になった。田舎の家は売却して、そのお金が祖母の持参金となった。
 その持参金がどうなったかは俺には判らない。だが、祖母が亡くなった後で、遺産のもめ事が無かったので、それまでには残っていなかったのだろう。
 そんな母が家で酒を飲んで酔って一度だけ言った事がある。
「本当はあんたにも幾らか残せるほどあったのだけどね」
 それが祖母の持参金の事だと判ったのは暫く後の事だった。
 その母だが、今はやっと四十になったが、見かけは三十そこそこにしか見えない。恐ろしく若く見える。街を歩いていても良く声を掛けられるそうだ。
 女の子には判らないが、男の子には思春期に少しだけ、あるいは一瞬の間だけ、母を「おんな」として見てしまう時期がある。単なる通過儀礼なのだが、俺にもあった、その時期には母の事を恐ろしく魅力的に見えてしまった事があった。高校生の俺は
「なんで父親みたいな人と結婚したのだろうか? 母ならもっと良い所があったのでは無いか」
 等と考えた。別に父が嫌いな訳ではない。世間に良くある、父親と息子が反発しあってる。等と言う事は我が家には無かった。父は良き父親だったが、特別の美観を誇る母とは釣り合いが取れない感じがしたのだ。
 俺が成長して判った事だが、俺が幼い頃から母には常に愛人が居たそうだ。やはり周りの男が放って置かなかったのだ。俺が高校生の頃、母は三十代だったが、子供から見てもその美しさは輝くばかりだった。学校の参観日等では綺麗な母が誇らしかった。そんな俺の気持なぞ理解しない母は家では無造作に俺の前で着替えたりしていた。俺はそれを目にしながら心に黒い感情が湧くのを押さえられなかった。
 高校を卒業すると進学せずに就職した。本来勉強の嫌いな俺が大学に行くなんて事は考えられなかった。でも学校の成績が悪かった訳ではない。進学担当の先生も
「もったいない。大抵の所なら狙えるぞ」
 等と言ってくれたが、本人に全くその気が無いのだから仕方がない。
 結局考えていた日本料理の道に進む事にした。子供の頃から何か料理を作る事が好きだったし、それを食べて喜ぶ顔を見るのが嬉しかったからだ。それに、有名な料亭は、住み込みで修行しなければならない。その為には家を出なくてはならない。正直、母と一つ屋根の下で暮らしたくは無かった。この頃母の行動は次第に大胆になっており、平気で愛人に家の前まで送らせるような事をしていた。父が気がつけば、すぐに問題になると思っていた。俺はそんな家から逃げ出したかったのだ。
 料理の修行は辛かった。でもそれは覚悟の上だった。半年で同期で入った者が半分になった。最初の半年では包丁はおろか、食材も触らせて貰えない。掃除や洗い物がメインで、後は食材が市場から届くとそれを運ぶ事。ビール等を冷蔵のビールクーラーに運んだりする力仕事が殆どだった。
 一年すると、食材に触らせて貰えるようになる。それは食材の保存だ。冷蔵庫の管理をさせられるようになるのだ。この時は少し嬉しかった。それに店でも包丁は無理だが、大根おろしや山葵をおろす事などもさせられるようになる。そして、今までと違うのは「まなかい」を作るようになる事だった。決められた金額を女将さんから阿預かって、店の従業員全員の夕食を作るのだ。一人で作る事もあるが、同期の仲間と一緒に作る事もある。でもこの頃には同期は俺の他には一人だけになってしまっていた。結局、これが料理の修行になるのだから、お互いに交代でやる事にした。
 店の営業が終わってから夕食になる。店によってはホールと板場で別々に食事をする所が多いそうだが、俺の店は全員が揃って食べる決まりだった。
 板場とホールの者が一緒に食事をして、今日の反省会となる。色々な意見が出るのだが、それが店の為になるのだ。
 そして、その夕食の場は、当然味の品評の場となる。誉められる事なぞ殆ど無い。板場の先輩は技術的なことを注意してくれる。それは本当に有り難い。ホールの仲居さん達は、お客の好みから来る感想を言ってくれる。これはこれで有り難い。板場に居たのでは得られない情報だからだ。
 そんなことをして瞬く間に二年が過ぎた。この頃にはやっと包丁を持たせて貰えた。切る材料は野菜ばかりだったが、それでも嬉しかった。板前としてやっと歩き出した実感がしたからだ。下の者も出来て、俺にも少しは教える事が出来たのが嬉しかった。
 だから家には毎年、正月休みにだけ一日のみ帰っていた。その日は正月では無かったが、連休で休みが続くので思い切って帰って見る事にしたのだ。

 久しぶりの家には、茶の間に父だけがぼんやりとテレビを見て座っていた。その姿が少し寂しそうだった。
「ただいま。母さんは?」
「おう、お帰り。出かけているよ。それにしても久しぶりじゃないか。正月以外で帰って来るなんてさ」
 元から静かな人だった。だがそれは表面的であり、本来は何か得体の知れないものを持っている人だとは感じていた。だがそれが俺の前で出た事はない。
「また、男の所?」
 父は苦笑いを浮かべた。
 父は母が浮気を繰り返しても俺の前で母をなじるような事はしなかった。高校を卒業して家を出る前に父に尋ねた事がある。
「どうして父さんは母さんが浮気を繰り返しても何も言わないのさ!」
 その時、父からはハッキリとした答えを貰った記憶は無かった。
 一つだけ覚えているのは、父が
「小学生の頃、お母さんの実家に行って、蛍を見たのを覚えているか?」
 そんな、全く関係ない事を逆に俺に尋ねた事だった。
「ああ、覚えているよ。あんな光景忘れられないに決まってるじゃない」
 俺がそう答えると父は薄笑いを浮かべて
「やはりお前は俺の息子なんだな」
 そんな事を呟いたのを覚えていた。
「もうすぐ帰って来るんじゃないかな。今日はお前が帰って来るのを知って出かけたからな」
 普通の母親は息子が帰って来る日には家にいるものだ。少なくとも俺の知人や友人の所はそうだ。
 父の言葉が終わって間もなくだった。家の前で車が停まり、ドアの開閉音が聴こえた。
「ただいま~」
 母の陽気な声が聴こえた。テレビを見ていて、動かない父に代わり、玄関まで出て見た。
母が登場すると何処でもその場がパッと明るくなる。
 玄関から上がって来た母は、初夏に相応しいモスグリーンのカットソーを着ていた。薄い生地で透けていて涼しさを感じさせた。しかし、母はその下に大きく胸の開いたタンクトップを着ていて、胸の谷間が露わになっていた。いかにも今まで男と情事をしていた事が伺えた。それに息から少しアルコール臭がした。正式にはアセトアルデヒドなんだろうが……。俺の姿を見ると
「もう帰っていたんだ。夕方かと思ってた」
 カットソーを脱ぐと俺に手渡し居間に向かった。母が通り過ぎた後に化粧の残り香が鼻を突いた。その後を追って居間に行くと母は父の隣に座り
「ただいま。朝からわたしが居なくて寂しかった?」
 そう言って父に持たれかかった。以前の母は息子の前でこんな事はしなかった。
「なんだ、随分大胆な格好で出かけたんだな」
 父がそんな事を言っているが顔は言葉とは裏腹で紅色そうな表情をしていた。今までもこうだったのだろうか? 俺が子供だったので気が付かなかったのだろうか?
「だって、こんな格好をすると皆喜ぶんだもの」
 そう言って大きく躰を揺すった。揺れる胸の谷間を見て、父も満更でもなさそうだった。
 それにしても、己の母親ながら、若い! 実際は四十に手が届きそうな年齢なのに、どう見ても三十前にしか見えない。それに加えて若い頃から周りの男どもを魅了したと言われる美観。こればかりは化物じみてるとしか言えない。恐らく顔だけではなく躰、スタイルも若い頃の体型を保っているのだろう。
「皆じゃなくて男が喜ぶんだろう?」
 父はまるで母が他の男にモテるのが嬉しいような素振りを見せている。俺が高校を卒業してから夫婦ふたりだけの生活になり、二人の関係があからさまになったのだろうか?
「今夜は泊まって行くんでしょう?」
 父の躰に持たれながら俺に尋ねる
「ああ、連休中は店も休みだし。寮に帰っても誰も居ないしね」
 店の隣にある寮では十人ほどの住み込みの者がいたが、この連休で皆実家に帰っていて、残ってる者は居なかった。居ても自分で食事の用意をしなければならず。返って面倒くさかった。
 その夜は昔と同じように親子三人で夕食を採った。只、以前と違っていたのは、母が俺の前でも「おんな」の部分を隠そうとしなくなった事だった。
 連休の終わりに、色々な事を考えながら店に戻った。よく夫婦の事を『割れ鍋に綴じ蓋』と言うが、俺の親もそうなのだと思う事にした。理想では自分の親は理想の親であって欲しかったし、それは今でも変わりは無い。
 例えそれが手に入れる事が出来ない幻想だとしてもだ……。

 それから半年後の年の暮。俺は思いがけなく『焼き方』に昇進した。同期の奴と一緒だったが、やがて同期の奴は同じ系列店に移って行った。これからは別々の店になるが、あいつにだけは負けられないと思った。それからは休みの日でも包丁の練習をした。少しでも上の仕事をしたかったからだ。
 だから、その正月は親に事情を言って家には帰らなかった。今思えばそれが良くなかったのだろうか。年が明けて春になった頃にそれは起きた。店で仕事をしていた時だった。 春と言うのは昔は歓送迎会などがあり忙しかったのだが、最近の日本人はそれをしなくなったらしく、さほど忙しい日では無かった。店の店長が俺に
「電話が掛かって来ている。伯母さんとか言っていたぞ」
 そう教えてくれた
「ありがとうございます!」
 そう言って急いで手を洗って店の事務室にある電話に飛びついた。電話の主は母の姉の伯母だった。あの田舎の母の実家で母と一緒に育った人だった。
「あんた、お店の電話が判らなくて苦労したのよ。大変なのよ! テレビ見て無かったの?」
 伯母が何を言っているのか理解出来なかった。
「テレビ見てないから……俺、仕事してたし」
 俺の頓珍漢な答えを聴いて伯母は
「お父さんがお母さんを刺したのよ!」
 あまりのことでその後暫くの事は記憶残っていない。気がつけば何処かの病院の霊安室に居た。寝台には布を掛けられた母の遺体が横たわっていた。伯母が教えてくれた所によると、隣家の人が母の絶叫を聞いて急いで来てみたら、父が真っ赤な血に染まった包丁を握って立ち尽くしていたそうだ。その足元には母が横たわっていて、隣家の人は急いで百十番に電話をしたのだという。
 そっと布をめくって母の顔を見た。まるで眠っているようだった。声を掛ければ起きるのでは無いだろうかと思った。それほど綺麗な顔だった。
 救急車が到着した時には、未だ息があったのだそうだ。だが病院に運ばれてすぐに息を引き取ったという。父はそのまま現行犯で警察に逮捕された。包丁を持ったままで、特別に抵抗しなかったという。
 いったい何が二人の間であったのだろうか? 父は母の放蕩にキレてしまったのだろうか? 普通ならそう思うのだろうが、俺にはそれでは無いと思った。父は母の行動を認めていたのだ。家庭を壊さない範囲。家庭に自分の関係を持ち込まない範囲なら、むしろ父は認めていた節さえあった。いいや、むしろ楽しんでいたのでは無いだろうか?
 伯母は母とは全く正反対の性格で、母の行動を心配していた。俺とたまにだが顔を合わすと母の事を心配していた。
「あんな事続けていると、いつか問題になるからね」
 そんな事を決まり事のように言っていた。生憎それが現実となってしまった訳だ。
 その後はお決まりのコースだった。母の葬儀を行い。四十九日の納骨まではすぐだった。俺はその度に店を休まなくてはならないのが申し訳無かった。店で俺に対する視線が違って来たのはすぐに判った。殺人者の息子であり、被害者の息子でもある訳だが、今までとは違って見られる事になった。
 父は殺人罪で起訴され、すぐに結審して懲役七年の実刑となった。思ったより軽かったのは、母の日頃の行動……つまり浮気に業を煮やした父が母と口論となりカッとなって思わず台所にあった包丁を持って来て刺してしまった、突発的な事件だと結論付けられたからだ。母の夫婦関係を破綻させる行動は簡単に立証出来たので、初犯だし情状酌量の余地もあり思ったより軽くなったのだ。弁護士は国選だったが
「もう少し頑張れば五年まで縮まりますよ」
 と言ったが父は刑をそのまま受け入れた。
 刑務所は長野刑務所に収監された。初犯で暴力団と繋がりの無い八年未満の刑期という事らしい。
 長野には面会に行くつもりだったし、刑期を終えて出て来る時は迎えに行くつもりだった。

 結局五年を過ぎた頃に模範囚となり仮釈放された。俺はその頃一人で暮らしていた。実家は父の意向で売却されてしまっていたので、俺は少し広いアパートを借りて父を迎い入れるつもりだった。
 店の方は結局別な店に移動させられた。そこは俺の事なぞ誰も知らない場所だった。父の起こした事件はマスコミには夫婦喧嘩の末の痴情という扱いで少しはワイドショーに取り上げられたがそれ以上話題になる事もなかった。
 父が仮釈放される頃には誰も覚えていなかった。俺の事もそんな事件に関わる者とは全く思われていなかった。
 新しい店では今ではこの春から『煮方』をやらせて貰っている。少し早いかも知れなかったが店の親方が俺の事を買ってくれたのだ。期待には応えなくてはならない。俺は頑張しかなかったからだ。
 道の脇が一段下がっていて、そこが歩道となっている。コンクリートの高い塀の上が金属の網が張られた塀が乗って、その塀が道なりに続いている。そう、ここは長野刑務所だ。今日は父の仮出所の日で俺は店を休んで車を借りて迎えに来たのだった。
 やがてスライド式の門扉が開かれ、ボストンバッグを持った一人の男が中から出て来た。それにしても刑務所なのに小学校の門の様な門扉だと思った。守衛さんにお礼を言って頭を下げると、俺の姿を見つけ僅かに嬉しそうな顔をした。
「お疲れさん」
「ああ、ありがとう。迎えに来てくれたのかい」
「うん。このまま東京まで帰ろうと思ってね。明日は店に出ないとならないし」
「そうか、悪かったな」
「まあ良いよ。乗りなよ」
 助手席のドアを開けて父を座らせる。自分も乗り込むとエンジンを掛けて車を走らせた。
 父はまっすぐ前を見ていた。俺はその横顔をチラチラと見ながら、何か話さねばと考えていた。すると
「高速に乗ったら少し話をする事があるんだ」
 父がそんな事を言いだした。
「何で高速に乗ってからなのさ」
「街中だと、驚いて運転ミスしたらヤバイだろう、人も歩いているし」
 良く判らないが、それだけ驚く内容なのだろうか。
 街中を抜けると、車は高速に入った。順調に流れているみたいだった。
「で、話って何さ」
「ああ、実は所長の世話で就職が決まってるんだ。長野の会社でな。お前の所で少し居て、準備が整ったら長野に戻るわ」
 実は父はある特殊技能の資格を持っていて、その方面では常に人手不足なので母を刺すまで、前の会社でも結構良い給料を稼いでいた。
 犯した罪も償った今は、その会社も父の技能が欲しいのだろう。その方面では父は優秀だったからだ。知る人ぞ知るという訳だった。
「そう、良かったじゃない。東京から離れた方が良いかもね。母さんの思い出とか色々あるだろうし」
 サービスエリアが近づいて来た。
「何か食べる?」
「ああ、そうだな。今食べておけば東京まで寄らなくても済むかもな」
 俺は車線を外れてサービスエリアの駐車場に車を駐めた。思ったより混んではいなかった。平日ともなれば、こんなものなのだろう。
 レストランに入ってそれぞれ注文をする。俺はトンカツ定食、親父は迷った挙句刺身定食にした。この山の地方で刺し身かよ、と思ったが、
「パフェも頼んでいいか?」
 そんな事を訊いて来た。
「ああ良いよ。でも甘いもの好きだったけ」
「いや、中では甘いものは食べられないからな。それと刺し身なんかもな」
 そうか、父は普通の状態では無かったと思い出した。七年の間、食べたい物が食べられ無かったのだ。そうなるかと納得した。
 注文したものが運ばれて来て食べながら
「家を売った金な。半分お前にやるよ。本来なら遺残相続でお前に行くはずだったからな」
 家を売った金は父の高座に入っていた。中からでも預金の管理は出来る。勿論俺とか弁護士の協力が必要だが。
「ありがとう。いいのかい。それと東京に戻ったら弁護士の先生に挨拶に行くんだろう?」
「行かないと不味いな」
「そうだね」
 実際刑事事件で挨拶に行く者は余り居ないそうだが、父の場合は行っても罰は当たらないと思った。
 と言うのも、当時、父と母は区役所の相談所に離婚の相談をしていたのだ。母が相談に訪れたらしい。裁判ではそのことが重要視され、離婚したがっていた母と離婚したくない父の対立が元からあり、それが事件の下敷きになっていると、弁護士が論点を展開したのだ。元より計画的犯行の跡は感じられず。その意見が採用され、カッとなった時の犯行と結論づけられたのだった。
「母さんは本当にいい女だったよ」
 刺身定食を食べ、デザートのパフェに口を付けながら父が思い出したように言い出した。
「魔性の女と呼んでも良かったな。兎に角、何処へ行っても男が放おって置かなかった」
 確かに母の美しさ、妖艶さは息子の俺が見ても、信じられないぐらいだった。そこで俺はこの数年間疑問に思っていた事を尋ねる事にした。予てから父が出所したら訊いてみるつもりだった。
「あのさ、母さんが浮気していたのは随分昔からだったじゃない。父さんはそれを認めていたのでしょう。なら何故急に怒ったりしたのさ。母さんが離婚しようと言って来たから?」
 父はパフェのイチゴを惜しそうに口に入れると
「母さんが離婚を口走ていたのは毎度の事さ。新しい男が出来ると口癖の様に『離婚しようかな』と言っていたさ。そんな事では俺は動じないよ。本当の事を言うのは構わないがここでは駄目だな。車の中で走りながら話すよ」
 その言葉に俺は飲みかけのコーヒーを口に流し込んだ。

 車は信越道を東京に向かっていた。渋滞も無く、スムーズに流れている。ぼんやりしてると眠くなりそうだった。
「実はな、お前はできちゃった婚だったんだ」
 それはかなり前に誰かから聞いた事があった。別に驚くような事では無かった。
「母さんが短大の時でな。この頃既に母さんには交際してる男が複数居た。俺が知ってるだけでも二人は居たから、本当はもっと居たかも知れん」
 まあ、後の母さんの異常なモテぶりからすれば、想像出来る事だった。
「それで父さんが勝ち取ったのか」
「勝ち取った言うより、俺の子だって言うからな」
「それじゃ、母さんは他の男とは何も無かったの?」
「まさか、避妊をしなかったのが俺だけだったという事さ。安心しろ、お前は確実に俺と母さんの子だから」
 別に特別安心はしないが、今更、真実の親を探して歩きたくは無い。
「母さんな、実は事件の時付き合っていた男の子供が欲しいと言い出したんだ。だから離婚してくれと……」
 それは初めて知った。まさかそんな理由を離婚相談には話せない。
「色々な事を許していた俺だったが、それだけは許せなかった。それに若く見えても四十だしな。アイツはどんなに外で遊んでいても、やがて必ず俺の元に帰って来る。戻る所は俺の所しかない。というのが俺の自負でもあった。事実母さんは外で他の男に抱かれた後は必ず俺に抱かれたがった。それは可愛いものだったよ。この魔性の女は俺のものだと実感出来たからな」
 そうか、その想いが父を夫婦関係を支えていたのだと実感した。
「だから永遠に母さんを俺のモノにする事にしたんだ」
 それは……それが殺人の本当の理由?
「じゃあ、咄嗟に頭に来て刺したのじゃ無いの?」
 父はそれには直接答えず
「お前は知らんだろうが、あの包丁な、昔お前がくれたものでな。母さん大切にして一度も使わなかった。新品のままだった」
 よく殺人が計画的だった場合、包丁の入所ルートを調べられる事があるが、俺が母に買ってあげたのはかなり前だ。それも家庭仕様の店ではなく俺が仕事の包丁を買ってる店で買ったものだった。作りが違う。
 あの裁判では包丁の入手ルートは勘案されなかった。計画的な犯行では無いとされたからだ。
「何時やろうかじっくりと考えた。勿論口論になったら何時でも使えるように用意していたけどな」
「じゃあ父さんは母さんを殺す事を計画していたの?」
「殺すと言うより、母さんは永遠に俺のものになったのさ。誰にも渡さないのさ」
 計画的であろうと無かろうと俺の母を殺したのは助手席に座っている父なのだ。
 胸糞が悪くなるという表現があるが、まさにその想いだった。でも俺はここに来て、思春期の頃母の着替え姿を見たり、母のだらしない格好を見たりした時の黒い感情が何かのか理解出来た。それは今から思えば「嫉妬」だったのだろう。子供として愛して欲しいと常に思っていた俺の嫉妬なのだ。
「母さんは蛍なんだよ。野に居れば毎夜、怪しい光で人々を魅了するが、籠に入れてしまえば、すぐに死んでしまう。だから母さんは他の男の子供を産んで……まあ歳もあるから難しいとは思ったがね。人のものになって籠に入ってはならないんだよ。そうなったらすぐに光を失ってしまうだろう。だから彼女の真の理解者は俺しか居なかったのさ」
 俺は父の呟きを耳にしながら車を東京に向かって走らせていた。俺は男として密かに父に嫉妬と殺意が湧いて来るのを抑えられなかった。                  

氷菓二次創作 「17歳の夏 神山にて 4」

  八月も末になると神山には秋の気配が近づいて来た事が伺えるようになる。特に、朝晩はめっきり涼しくなって来ていた。
 月の初め頃は午前四時には明るかったのが今や六時前にならにと明るくはならない。これが来月になるともっと遅くなる。
 どっちかと言うと俺は余り昼が長いのは性に合わないと自分では思っている。伊原あたりが聞いたなら薄笑いを浮かべるのではないか。
 その日は千反田と逢う約束になっていた。何回か行った図書館での勉強の延長で、大日向の事を口に出すつもりだった。
 その大日向だが、先日里志のセッテイングで逢ったのだ。里志が二人が逢う場所として指定したのは、何と神山高校の地学講義室だった。何の事はない、古典部の部室だった。
「何だって、よりによって古典部の部室なんだ?」
「ああ、だってその方が判りやすいし、それに夏休みの部室なんて秘密の話をするのには好都合じゃないか」
 全く、里志の考えそうな事だと思った。
 当日、職員室で鍵を借りて特別棟の四階まで登って行くと、何時かみたいに部室の入り口の桟に両手を伸ばした状態で人が下がっていた。大日向だった。
「よう、暫く振りだな」
 いきなり声を掛けた訳ではないが、大日向は驚いて両手を放して勢い良く廊下に着地した。
「驚いた!」
「何でだ。この時間に俺がここに来るのは知っていただろう」
「そうですけど折木先輩の登場の仕方が予想と違っていたので」
 いったいこつはどんな登場の仕方を想像していたのだ。
「いつぞやは、本当にありがとうございました」
 大日向は両手を揃えて頭を下げた。
「いや、別に気にしなくても良い。礼を言われる程の事はしていない」
「でも、あのままだったら、わたしは未だに……」
「それは結果論だ。違う展開もあったかも知れん。それより鍵を借りて来た。中に入ろう。里志が言うには夏休みの古典部の部室は秘密の相談をするには持って来いだそうだからな」
「何ですか、それ」
「里志一流のジョークだ」
 鍵を開けて中に入る。ここ数日誰も入っていなかったのか、部屋からお日様の匂いがした。
「ああ、いい匂い……わたし、このお日様の匂い、好きなんです」
 確かに大日向には似合っていると俺も思った。
「適当に座ってくれ」
 そう言うと大日向はかって自分が良く座っていた席に着座した。俺は何時もの席に座る。
「千反田に謝りたいなら直接行けば良いじゃないか。知らぬ仲では無いのだから」
 いきなり本題に入る
「最初はそう思っていたのですが、あの噂を耳にしてしまって……」
 あの噂か……こいつはどんな噂を聞いたのだろうか?
「その噂とやらを俺にも教えてくれ」
「え、知らないんですか?」
「知ってはいるが、正確では無い。誰も俺に噂をする奴はいないからな」
「それもそうですね。何せ噂の張本人の片割れですからね」
「片割れ? 何だそりゃ」
 俺の不思議そうな顔を見て大日向は自分が耳にした噂を語り出した。しかも嬉しそうに。
「合唱祭で、独唱をするはずだった千反田先輩はその重圧に耐えられなく、逃げ出して行方不明になった。皆が大騒ぎをしていたが、折木先輩が『自分には心当たりがあるから迎えに行って来ます』と言って千反田先輩の逃避行先を見つけ出し、連れて来たという訳です。だから折木先輩は白馬に乗った王子様という事ですね」
「いや、それは違うぞ。もしかして、続きもあるのか?」
「はい、そんな大事を引き起こしてしまった千反田先輩は千反田家の跡取りとして相応しくないと言われ始めたという事です」
 やれやれ、全く事実とは違っていた。噂なんて案外そんなものだとは思うが……。
「事実は逆だ。最初に千反田が『家を継がくても良い。自分の好きな道に進みなさい』と言われたのだ。だが千反田にとってはそれは青天の霹靂とも言う事で、戸惑ってしまった。今まで家を継いで農業に身を捧げる覚悟をしていただけに。いきなりそんな事を言われて戸惑ってしまっていたのだ。そこに合唱祭での独唱をすることになったそうだ。そして、その独唱の部分が自由へのあこがれをストレートに歌う歌詞だった。あの時の千反田の精神状態では歌えない歌詞だったのだ。これが真実だ」
 俺は事実を簡単に大日向に伝えた。
「事実は噂より奇なりですね」
「それは事実は小説よりも奇なり。だろう」
「いいじゃ無いですか。でも、それじゃ本当に辛かったのでしょうね」
「それで千反田に謝りたいのか?」
「はい、あの時、自分の妄想で勝手に酷い事を言ってしまって、やはりきちんと謝らないといけないと思いました。でも今度の噂を聞くと、千反田先輩は、わたしと逢ってくれるような余裕は無いのではと考えたのです。あの時、折木先輩が言ってくれたから今の自分がある。あの時の事はわたしの中では未だ終わっていないんです。だから折木先輩にもう一度だけ助けて貰おうと思いました」
 そうなのだ。あの時の事は大日向の中では決着してはいない。
「わたしは一度、折木先輩に救われています。だからもう一度だけお願い出来ないかと思ったのです」
 大日向はもう一度同じことを口にした。
 まさか、あの時は千反田を救うのが先決で、結果的に大日向の誤解は解いたかも知れないが、傷つけてしまった。それは俺のせいでは無かったかも知れないが……いや、今回の千反田の事と言い、前の大日向の事も結果的には俺のせいかも知れなかった。
 二人は俺がいなかったら……何事も無いように暮らしていたのでは無いか……。そんな想いが頭を過ぎる。
「判った。千反田に話をしてみよう。それで、どうして連絡する?」
「携帯の番号を交換しましょう」
「生憎、俺は携帯を持っていないんだ」
「ええ! 今時の高校生が携帯も持っていないのですか? そう言えば、千反田先輩も持っていなかったのですよね?」
「ああ」
「お似合いのカップルなんですね」
 この時の大日向は俺が見た大日向の表情で一番嬉しそうな顔をした。
「あの頃、二人を見ているのが幸せでした。仲の良い先輩達は本当にお似合いですよ」
 その日、大日向とお互いの家の電話番号を教えて別れた。

 待ち合わせの場所に千反田は先に来ていた。オフホワイトの半袖のワンピースに薄緑の夏物のカーディガンを羽織っていた。
「早いな」
「商店街に用事があったので少し早めに家を出たのです」
 自転車の前の籠には青いバッグが置かれていた。
「カーディガンなんか着て暑くないのか?」
 似合ってはいたが、今日の陽気では暑かろうと思った。
「図書館では冷房が利いていますから」
 なるほど、そう言えばそうだったと思い出した。
「行きましょうか。遅くなると場所が無くなりますから」
 図書館では調べ物や勉強等で自習室を使う者は以外と多く、土日等では早々に満員になってしまう事も良くある。
「そうだな、場所を確保するのが大事だな」
 俺も自転車を押して歩き出す。乗って併走してしまえば訳の無い距離なのだが、わざわざ乗ってきた自転車を押すには理由があった。
「家の状況は変わらずか?」
 俺の不躾な質問に千反田は
「そうですね。それは変わりませんね。ただ、わたしが跡取りの立場から外されたと言う事は親戚には広まってしまったみたいです」
「あの噂のせいか」
「そうですね。それと父がさりげなく親戚の集まりで『えるには好きな道を歩ませようと思っています』と語っている為でもあります」
 親父さんの鉄吾さんは外堀から埋め始めたと言う事かと思った。
「お前の気持ちはどうだ」
 今、千反田にこの事を尋ねるのは酷かも知れない。でも立ち直りが早ければ、それは千反田にとって悪い結果にはならないだろう。
「そうですね。新しい道と言っても、未だ決められません。とりあえずは家を継がなくても農業の道に進むのも悪くはないと思い始めています。生まれてからそれ以外に考えた事がありませんですから」
「そうか、俺は助言してやれないが、自分が納得するまで考えた方が良い」
「そうですね。でも時間的にそれほど、ゆっくりとは、していられませんけどね」
 そうなのだ。俺たちはもう高校二年生なのだ。三年間の高校生活のうち折り返し点を過ぎてしまっているのだ。
 図書館の入り口の門が見えて来た。中に入って自習室に入ってしまったら、やたらに私語は話せない。
「あのな、大日向がお前に謝りたいそうなんだ。実はそれで仲介を頼まれた」
 曇っていた空が晴れて来ていて太陽が顔を覗かせていた。今日は少し暑くなるかも知れなかった。午前の陽が千反田の顔を照らしている。
「そうですか。でもわたし、大日向さんに酷いことを言ってしまったから、わざわざ謝って貰う事は無いと思うのですけど……」
 相変わらず千反田は自分が悪いと思っている。
「それは違う。俺はあの後、大日向と話して誤解を解いた。そのことについては大日向が勝手に思い込んでいた事だ。お前に非はない」
「そうでしょうけれども、実際にはわたしの行動や物の言い方が誤解を生んだのだと思うのです。その点はわたしも謝らなくてはなりません」
「じゃあ、逢うのは構わないのだな」
「はい。逢ってわだかまりが無くなれば良いと思います。折木さんもう一度ご足労願います」
「乗りかかった船でもあるしな。そうと決まれば何処で逢おうか」
「古典部の部室でどうでしょうか? そして大日向さんがもう一度入部してくれれば嬉しいです」
 こうして千反田と大日向はもう一度逢う事になった。

  その日。俺は二人を古典部の部室、地学講義室まで案内をした。俺の見た所二人とも少し緊張していた感じだった。無理も無いだろう。二人が中に入ると俺自身は部室から椅子ごと廊下に出て座り、文庫本を読んでいた。部室の中で二人がどんな会話をしたのかは具体的には判らないが、大凡なら想像出来る。
 偶然廊下に出た天文部の部員が不思議そうな顔で俺の事を見ていたのが印象的だった。
 どのぐらいだったろうか、それほど長い時間ではなかった気もするが、結構な時間だった気もする。二人揃って部室から出て来た。
 千反田の手には一枚の紙が握られていた。それには「入部届」と書かれてあった。
「折木さん。大日向さんが正式に入部してくれました」
「折木先輩、よろしくお願いします」
 大日向が軽く頭を下げた。
「ようこそ古典部へ」
 部長の千反田はさぞや嬉しいだろうと想像した。そして俺は千反田の表情に笑顔が戻ったのが嬉しかった。

          
                                                                 <了>

氷菓二次創作 「17歳の夏 神山にて 3」

  最近の神山は本当に観光客が多くなった。前から多かったが、以前との違いは外国人が多くなった事だ。今や日本人との比率が変わらなくなって来ていて、その影響なのだろうが、外国資本のカフェチェーン等の進出が目立つ。しかも、その数は増している。神山駅の向こう側にはいち早く登場したし、それ以外の店もあちこちに進出している。それらが皆撤退しないのはそれだけ利用者が多いからだろう。一度だけ里志に誘われて行ったが、味そのものが俺の好みでは無かった。それに高校生の乏しい小遣いでは、頻繁に通うには出費が多すぎる。だから俺は相変わらず、行き慣れた店に通っている。
 八月も後半に入っていて、朝晩は秋の気配も感じられるようになっていた。俺と千反田はあれから数回逢っていて、それは図書館で勉強したり、文集「氷菓」の打ち合わせの時もあった。

 その日、姉貴は小旅行に出かけていてその日は帰って来なかったし、親父は例によって出張で家には俺一人だった。よくある事なので、夕食は簡単に済ませてしまおうと冷蔵庫を漁っていたら電話が鳴った。
「もしもし、折木ですが」
「ああ、ホータロー?」
 電話の主は里志だった。
「どうした伊原に何かあったのか?」
 こいつがこんな時刻に電話をして来るのは珍しい。普段は夕食後に掛かって来る事が多いから、誰かに何かあったのかと考えた。千反田に関してはこいつより俺の方が色々な情報を持っていたから千反田の事では無いと判断した。里志本人からの電話なので、古典部残りの一人伊原の事かと考えたのだ。
「いや、摩耶花は元気だよ。今は文集と文化祭で売る同人誌に夢中で取り掛かっているけどね。今の所、僕は相談事は聞いていない。そうじゃなくて、ホータローの意見が聴きたいんと言うより頼み事かな。今夜逢えないかな?」
 夜に里志と逢うのは、六月に生ぬるい風にあたられながらも一緒に歩いて以来だった。あの時は思いがけなく旨いラーメンを食べた。実はあれから又行ってみたいとは思っていた。
「急ぐのか?」
「まあ、急ぐ問題では無いけど、自分の身内が少し関わってる事だから」
 里志の身内と言えば妹以外には思いつかなかった。
「妹のことなのか?」
 里志の妹に関しては兄の里志以上に傍若無人な性格で、俺には変人に近い感じがしている。彼女に関する事だったら御免だった。
「いいや、そうじゃない。違う人物の事さ。ホータローも知ってる人物さ」
 俺が知ってる人物で里志の妹に近い者……ある名前が浮かんだ。
「もしかして大日向の事か?」
 大日向友子……春に仮入部したが、色々有り今は退部している。というより正式には入部しなかった。
「さすがだねホータロー。僕が妹の事を口にしただけで、大日向さんの名前が出て来るとはね」
 大日向に関する事ならば電話では済ませられない。
「実は夕飯が未だなんだ」
「ああ、なら終わってからでも良いけど」
「生憎、今夜は俺一人なんだ」
「そうか、それで?」
「出掛けついでにあのラーメン屋にでも行かないか? そうすればそれを夕飯代わりに出来る。それに……」
「それに?」
「今度は俺も餃子を食べてみたいしな」
 六月の時は里志は夕食前だったので、ラーメンの他に餃子を頼んだのだった。だが里志曰く
「僕はあの時ワンタンメンとライスを頼んだよ」
 そうだったか。でも餃子も食べてみたかったのだ。
「そう言う事ならオーケーだよ。じゃあ今から出ようか?」
「ああ、じゃあまた赤橋で待ち合わせよう」
「じゃ」
 里志はそう言って電話を切った。
 財布の中身を確認すると千円札が数枚入っていた。これなら俺の分はもとより、イザと言う時は里志の分も出してやれそうだった。一旦玄関を出て表の空気に触れたが、思ったより風が涼しいので、家の中に戻りTシャツの上にシャツを羽織って表に出た。
 この時期の神山は暮れるのが早くなっていて、既に住宅街には夜の帳が降りていた。僅かに西の空が山の際が赤く見える程度だった。やはり風が思ったより冷たかった。これなら熱いラーメンも汗を掻かずに食べられそうだった。

 待ち合わせの場所に来ると里志は既に来ていた
「おばんです。急に悪かったね」
「いいや、むしろ良かったかも知れない。もう少し遅かったら何か作っていた」
「そうか、いつだったかは確か焼きそばだったけ?」
 六月の夜に逢った時、俺は夕食に焼きそばを作って食べようとしていた時だった。僅かな電話の時間だったが、焼きそばの表面は冷めていた。
「この前のラーメン屋で良い?」
「ああ、そのつもりで来たんだ」
 俺の頭の中はラーメンと餃子で埋まっていた。他に何も入る余地はない。赤橋を渡って川沿いの小径を上って行く途中で曲がり住宅街に入る。
「それで、俺に聴いて欲しいという事は何だ」
 さっきから黙って歩いている里志に誘い水を向けると。
「秋に新学期が始まると総務委員会でも来年度に向けて動きがあってね」
 俺は学校の行事ぐらいは知ってるが生徒会や総務委員会の事には疎かった。
「来年度の人事か何かか?」
「うん、総務委員会は基本的には三年生も委員になっているんだ。殆ど参加はしないけどね」
「三年は受験があるからな」
「たまに進学しない三年生は参加してくれるけどね。それで来年度の委員長と副委員長を予め決めておくんだ。僕が二年生になって副委員長に選ばれたのも一年の時に決まっていたんだ」
「そうか、そんな仕組みになっていたとは知らなかった」
「言っていなかったと思うけど、実は妹が総務委員なんだ」
 それは知らなかった。あんな変人で務まるのかと考えた。
「それで、その妹が副委員長の候補の一人に推薦されそうなんだ」
「兄弟で副委員長となる訳か、それはそれで凄いな。で、それが問題なのか?」
「いいや、それは問題では無いんだ。総務委員会の役員は、まず自薦他薦の推薦があって話し合いで決められるが、決まらない時は委員全員の投票で決められるんだ。尤もここ数年投票は行われていないそうだけどね」
「それで?」
「うん、総務委員と言えば各部活動とも密接な関係がある訳だけれども、僕の妹が総務委員になったので、友達で同じクラスの大日向さんが妹に頼んで来たんだよ」
 道は別れていて右の方に行けば俺たちが卒業した鏑矢中学に向かう。別な方を進めばやがて小さな商店街に出る。
「こっちに行こうか。その方がラーメン屋に近い」
 里志の言う方に進む。もう少し行けばあの赤い提灯が見えて来るはずだった。
「その頼み事とは?」
「千反田さんに、ちゃんと謝りたいそうなんだ。実は最初は自分だけで行こうと考えていたそうなんだが、千反田さんのあの噂を耳にして、迷ってしまったと言う事なんだ」
 里志は問題の核心を一気に口に出した。あの噂がまさか大日向の行動まで制限をさせているとは考えもしなかった。それと大日向が案外世間体を気にするタイプだった事が意外だった。
「それで俺に千反田に口を利いて欲しいと言う事か」
「まあ、そんな訳なんだよね」
 もう赤い提灯が見えて来ても良い頃だった。
「あれ、暗いな……まさか休み?」
 かって二人で食べた店の前に立っていた。店のシャッターは降りて提灯もしまわれていた。店の表に張り紙が貼ってあった。
「〇〇日~〇〇日まで休業致します。 店主敬白」
 なんてこった。結構楽しみにしていたのに完全にはぐらかされた気持だった
「どうする?」
「代りの店を見つけるしか無さそうだね。とりあえず商店街の方に出て見ようよ」
 里志は代りの店のあてがあるのだろうか、先に立って歩いて行く。その背中に
「俺から千反田に言うのは全く構わないが、千反田は大日向が古典部に復帰してくれたら喜ぶと思うぞ」
 後ろ姿に声を掛けると
「そうなれば僕としても嬉しいね。勿論摩耶花も喜ぶと思うよ」
 それにしても、こんな問題に間に三人も立っているとは……そんな事を考えると今回の噂は色々な所で、長引きそうだった。あの事件はそれほど暗い影を落としていると言う事だと納得した。
  
 暗い夜道から明かりの灯っている道に出た。商店街はさほど大きくはなく小さな店が並んでいた。その一角から「ドスン、バタン」と音がする。何の音だろうかと近寄って見ると、何と中華料理屋だった。いや正確には中華料理屋だが麺類専門の店らしかった。大きな音がしていたのは、麺を手で捏ねていた音だった。
 店の前が少し出窓風になっていて、表から麺を打っている様子を見る事が出来る。捏ねた小麦の塊を今度は両手で左右に引っ張って伸ばして行く。両手一杯まで左右に伸ばすと今度は持ち替えて更に伸ばして行く。これを数回繰り返すとたちまち細い麺になった。包丁で左右の部分を切り離すと、グラグラ煮え立っている大鍋に麺を放り込んだ。
 脇ではラーメンどんぶりにスープが張られている。そこに煮えた麺を網で掬い水気を切ると滑るように潜り込ませた。急いでチャーシューやメンマ等の具材を乗せて行く
「お待ちどう様」
 カウンターに出来たてのラーメンが置かれた。客がそれを受け取って箸で摘んで口に運ぶ
「旨い!麺とスープが違うからね!」
 サラリーマン風の男がそう言って顔を崩した。
「ここにしない」
 出窓に顔を着けそうにして見ていた里志がそう言ったが、俺も同じ事を考えていた。
「そうだな。でもここにこんな手打の店があったなんてな」
 自動ドアを開けて暖簾を潜って店内に入った。椅子席に座り、メニューを見て『チャーシュー麺』を頼んだ。
 数分後、大盛りの様な麺がすっかり隠れるほどチャーシューが乗った丼が二人の前に置かれた。スープに口を付ける。さっぱりしてるが濃厚とも言えるコクのあるスープだった。醤油味だが透き通っている。
 やや太めの麺を口に入れるとぷりぷりで、それでいて腰があるのに滑らかな歯ごたえが何とも言えなかった。
 夢中で食べていると里志が
「来なくてはならない店がまた増えたね。それと大日向さんと千反田さんの事は宜しく頼むよ」
 そう言って笑ったのが印象的だった。
 秋にはひと仕事しなければならないと覚悟したのだった。

氷菓二次創作 「17歳の夏 神山にて 2」

  それは高校二年の八月の事だった。 昼下がりの太陽が遠慮なく照りけていて、就活中の姉貴が珍しく俺の部屋にやって来た。
「あんた、千反田家のお嬢様と付き合ってるの?」
 いきなり、そんな事を尋ね来た。
「何だよ、いきなり。付き合ってはいないけど、親しくはしている」
 確かに恋人とは呼べない段階だ。しかし只の友達以上とも言える微妙な段階でもあると思う。
「何かあったのか?」
 俺の質問に姉貴はやけに真剣な表情をして
「就職活動していてね。千反田家のお嬢さん。確か、えるちゃんと言ったっけ。彼女の噂を耳にしたのよ」
 就活中にそんな噂を聞くなんて、何処に行っているのやら
「あたしね。百日紅書店に勤めたいと思っているのよ。洋書を手がけてみたいの。それで、会社説明会に出ていたら、ほら、旧家好きというか、そんな連中が居てね。妙な噂をしていたのよ」
「何だ、姉貴は卒業したらここに住むのか? 都会に出るのじゃ無いのか?」
「バカねあんた。あんたが大学に行ったらこの家はどうなるの? お父さんの面倒は誰が見るの?」
 そうか、俺が卒業して大学に進学するのと姉貴が大学を卒業して就職するのは同じ年だった。
「あたしがこの家に居ればあんただって気兼ねなく出て行けるでしょう」
 確かにその通りだと改めて思った。
「それで、変な噂とは?」
 今は、それが気に掛かる。
「あのね。あくまで無責任な噂だからね。いい?」
「判った」
 俺の返事を待って姉貴はその噂を語りだした。
「七月の二十日だったかしら、市民ホールで音楽コンクールが開催されたでしょう? 確か江嶋椙堂を記念した『江嶋合唱祭』だったかしら?」
 博学の姉貴だが、さすがに自分が居ない神山での催しまでは知らない。
「ああ、たしかにあった。それが関係してるのか?」
「うん。それに千反田家のえるちゃんが出る事になっていて、しかも独唱をする事になっていたとか」
 確かにその通りだった。
「でも、事情があって彼女は独唱しなかった。言わば外された格好になったのね」
「それは確かに事実だが、それには色々と訳がある」
「勿論、そうでしょう。でもね噂ではね、独唱の重圧に耐えられなかったからだと言われているわ。そして、そんな事も出来ないえるちゃんは千反田家の跡取りとして相応しく無いとか……そんな事を話してる連中が居たのよ」
 確かに事実関係だけを見れば、それで当たっているのだろうが、事実は全く違う。そこで俺は姉貴に俺が知る事実を語った。
「確かにね、そんな訳があったとは思ったわ。誰だって、そんないきなり梯子を外された状態で『さあ歌いなさい』と言われたって、歌えるものでは無いわね」
 俺が知る部分は、恐らく千反田を取り巻いている状況の一部分しか知らないのだろうとは思う。
「でもね」
 姉貴は一呼吸置くと
「結果として、えるちゃんに今迄掛かっていた重石が取れた事だけは事実よ。今は急激な環境の変化に心を含めて自分自身や周りも追いついていないのだと思うわ」
 それは恐らくその通りだろう。俺にとっては周りの人間なぞどうでも良い。千反田の事だけが心配なのだと改めて思う。考えれば俺は何時からこうなってしまったのだろうか。ふとそんな事を考えた。
「親としてみれば、良かれと考えての事なんでしょうね。得てして子供の心親不知なんて事もあるからね。あんた、その分じゃ大分首を突っ込んでいるのでしょう。上手くやりなさいなんて言わないけど、二人にとって悔いの残らないようにやりなさいよ」
 姉貴はそれだけを言い残すと俺の部屋から出て行った。残された部屋で一人考える。何より今は千反田の事が心配だ。今はそれだけだった。

 八月の某日。文化祭で販売する文集「氷菓」の編集会議が古典部の部室で開かれた。
「やあ、ホータロー。暫く振りだね。千反田さんは未だなんだ」
 里志が部室に入って来るなり口を開く。続いて入って来た伊原も
「何だ、折木だけなの? てっきりちーちゃんと一緒だと思っていたわ」
 今日は千反田とは特別連絡を取っていなかった。それに時間までには未だ間があった。
「そのうち来るだろう」
 俺の返事を聞いて里志が
「実は千反田さんがらみで良くない噂を耳にしたんだ」
 そう小声で言いながら近づいて来た。伊原は当日その場に居たので、事の顛末を知っている。恐らく里志は伊原から事情を聞いた上で、その噂の事を俺に言う積りなのだろう。
「千反田の跡取りの事か?」
「知っていたのかい?」
「ああ、そう言う類の噂は伝わって来るものだからな」
「合唱祭と千反田家の事は全く関係が無いのにね。あんなに衰弱したちーちゃん見たのは初めてだったわ」
 あの日、会場にたどり着いた千反田は確かに何時もの千反田ではなかった。その状態を見た者が噂に下駄を履かせたのだろう。当たらずとも、遠からずだが……。
「兎に角、一番身近に居る者として、今は千反田が普段通りに戻る事が大事だと考えている。だから今日も強制的に来るような事は言わなかったんだ」
「そうだろうと思ったよ。それで千反田さんの状態はどうなのさ」
 里志も心配しているのだろう。それは伊原の状態を見れば良く判る。その時
「遅くなりました」
 千反田が息を切らせて入って来た。
「よう」
 そう言って片手をひらひらさせた。いつも通りの挨拶だった。
「それじゃ始めて下さい」
 千反田が席に座って声を掛けた。そして編集会議が始まった。

「それじゃ、この通りに進める事にするわね」
 伊原が色々書き込んだ資料を持って里志と一緒に部室から出て行った。千反田は少なくとも表面的には以前の状態に戻っていた。部屋に残されたのは俺と千反田の二人だけとなった。
「どうする。帰るか?」
 千反田が何か話が無ければこのまま帰る事になる。
「少し、散歩でもしませんか。実は聴いて貰いたい事もあるのです」
 千反田のその言葉で、宮川沿いを歩く事にした。
「噂お聞きになりました?」
 暫く歩いて、鍛冶橋のあたりで千反田が、そのことに関して口を開いた。
「まあな。でも気にするな。人の噂も七十五日とか言うから」
「正直言って、全く関係ない事柄を結び付けられるのは余り気分の良いものではありません。でも、確かに合唱祭では取り返しのつかない失態を演じてしまいました。折木さんを始め皆さんから軽蔑されても仕方ない事をしたのです」
「そうじゃない! 少なくとも俺はそんな事を思ってはいない。それに、あれは仕方ないだろう。後で、横手さんにも事情を言ったら、驚いていたよ」
「伯母にも迷惑をかけてしまいました」
 実は俺にも後悔する事はある。あの日、千反田の事を推測していたのに、ギリギリになるまで行動を起こさなかった事だ。恐らくもう少し早く……一本早く迎えに行っていたら、千反田は余裕を持って歌う事が出来たかも知れない。その覚悟が出来たかも知れなかったのだ。それなら、こんな噂は出なかっただろう。合唱祭と千反田の跡取りの事は他人には全く関係が無く、千反田本人の問題でしか無かったはずだった。その事を千反田に謝る。
「そんな……今回の事はわたしの問題でした。わたしが子供だったのです。それだけなのです。その為に皆さんにご迷惑をかけてしまいました。それが申し訳無いのです」
「違う! それだけは違うぞ。誰だって、あんな手のひらを返す様な事を実の親から言われて平常心でいろと言う方がおかしい。少なくとも俺はそう思う」
 嘘偽りの無い俺の本心だった。
「折木さん……ありがとうございます! 嬉しいです。一番心を許せる人がそう言ってくれて、とても嬉しいです。その言葉だけでこれから強く生きて行けます」
 宮川沿いの土手で、俺の隣に並んで座っていた千反田は、俺の腕を取ってそっと持たれ掛かった。
「暫く、こうさせて下さい。こうして折木さんに触れていると安心するんです」
 俺も千反田の手をそっと握る。もうこの手を放してはならないと心に誓うのだった。

氷菓二次創作 「17歳の夏 神山にて 1」

  今年は蝉が鳴き出すのが早い。七月の終わり頃から鳴き出している。夏の風物詩とは言え、蝉もこの暑いのに大変だとは思う。
 夏休みに入った日。俺はあることに関わって、雨が降る中を千反田をバスに乗って探しに行った。いや、正確には迎えに行ったという事かも知れない。
 あれから、色々な事があった。正直に言うと、あれは千反田の個人的な問題であって、俺の問題ではない。しかし、恐らく千反田の胸の内を少しでも理解出来るのは千反田の周りでは恐らく俺だけだろうと言う自負も少しはあった。
 コンクールの出番には何とか間に合ったが、あの状態で千反田がきちんと歌える訳がなく、段林さんは千反田が歌うはずだった独唱の部分を別な者に交代させた。それが良かったのか悪かったのかは、色々な見方が出来るだろうが、少なくとも千反田の胸の内を考えれば悪くは無かったのだと思う。コンクールの結果は散々だったが……。

 あれから一度だけ千反田と逢った。いや正確には千反田一家と逢ったと言い換えた方が良いだろう。千反田の両親が俺に「お礼をしたい」と言って来たので、市内の喫茶店で千反田を含めて一度逢ったのだ。それについては別な所で述べる事もあるだろう。今回の話の趣旨からは外れた事だ。
 夏休みという事で姉貴が家に帰って来ている。本人は三年ということで就職活動が忙しいらしい。そこで俺にアルバイトのお鉢が回って来た。
「あんた、昨年市民プールの監視員のアルバイトやったでしょう? 今年も頼まれてくれないかしら?」
 昨年の事は良く覚えている。確か夏休みが終わってすぐの日曜だった。里志や千反田、それに伊原までもが俺の監査員ぶりを見にやって来たのだった。
「暑いから嫌だな」
「今年はアルバイト代上がったわよ。二日だけで良いのよ。どう?」
 姉貴の言い方は柔らかいが、どうやら断る事が出来そうな雰囲気は無かった。
「判ったよ。二日だけだな。それ以外はお断りだ」
「二日だけよ。じゃ連絡しておくわ」
「それで何時行くんだ?」
「明日と明後日」
 これだ! 結局誰かが具合が悪くなり、交代要員を探したが誰も見つからず、姉貴に声が掛かったらしい。だが生憎、姉貴は就活中で出られないので昨年経験した俺に白羽の矢が立ったと言う事らしい。
 それなら、それで構わないが出来れば今年は里志から電話が掛かって来ない事を望む。
 そう思っていたら、夜になって千反田から電話が掛かって来た。
「もしもし、千反田ですけど折木さんですか?」
「ああ、俺だけど」
「ああ、良かった。先日はどうもありがとうございました」
「いや、俺の方こそ、わざわざ礼を言ってくれるほどの事では無いのに申し訳無かったな」
「いいえ、とんでもありません。折木さんが居てくれなかったら、わたし……」
 電話の向こうで千反田が思い詰める様子を感じた。
「それで、その後はどうなんだ?」
「はい、お陰様で一応は以前の様になっています」
「そうか、置かれた環境は変わらずか?」
「はい、それはそのままです。というより、これは変わらないと思います」
 どこか諦めが感じられるような言い方が少し気になった。
「ところで、明日なんですが、一緒に図書館で勉強しませんか?」
 恐らく千反田としては他人で唯一事情が判っている俺に話というか自分の気持ちを聞いて欲しいのだろうと理解した。
「それが、明日と明後日は急にバイトが入ったんだ。昨年もやった市民プールの監視員さ」
「まあ、そうなのですか。では駄目ですね。次の機会に譲りましょう。では、わたしだけでも陣中見舞に行きますね。お弁当でも作って行きます」
『いやそれは……』
 そう言いかけて、言葉を呑み込んだ。逢えば何かしら千反田の気休めになれば。それはそれで悪くは無いと考えたからだ。
「そうか、それは有り難い。楽しみにしてるよ」
 そう言って電話を切った。

 翌日、朝からよく晴れていて、案の定市民プールは人が大勢来るだろうと推測出来た。
「じゃ頑張ってね」
 姉貴の声に送られて家を出る。市民プールまでは自転車で行く。この炎天下に歩くのは御免被りたいからだ。
 プールでは勝手知ったる何とかで、制服に着替えキャップを被り、トランシーバーを首から下げる。これで準備OKだ。
 監視台に座って監視を始める。殆どは何もせずに時間だけが過ぎて行く……がやはり暑い。用意していた水を呑んで汗の素を作る。
 一時間で交代となる。プールの各所に監視台があり、交代で監視をしている。基本一時間監視して三十分休憩でまた別の場所で一時間監視となる。そして営業時間が終わる午後五時までこれが続く。営業が終わった後は監視員全員で点検をして報告して終わるのだ。遅くても五時半前後には家に帰る事が出来る。願わくば明日は曇りであって欲しいと思った。

「こんにちは折木さん。昨夜の電話の通りに陣中見舞に来ました」
 不意に声を掛けられて、横を見ると千反田が保冷バッグを下げて水着姿で立っていた。昨年も着ていた、あの白い水着の上にピンクのパーカーを羽織っていた。昨年と違うのは同じ水着だが面積が少し小さくなった気がした。その分、出ることろは出て、引き締まる所はしっかりと引き締まっていたと言うことなのだろう。これは仕事の時には見てはいけないと思った。理性的にならなければ……それほど千反田の水着姿は今の俺にとって眩しかった。
 その千反田は両手で保冷バッグを躰の前で下げている。つまり自分の胸を挟むような格好となっている。昨年より深くなった胸の谷間にどうしても目が行ってしまう。炎天下でこんなモノを見せつけられたら堪ったものではないと感じた。
「どうかしましたか?」
 千反田の声で我に返る。
「いいや、何でもない。ありがとう!」
 その時
「交代だよ折木くん。休憩後は競泳プールの方お願いね」」
 その声で監視台を降りると監視台の横で立っていた千反田がニッコリと微笑んだ。

 プールの横に張られたテントの木陰に用意された椅子に座って、生ぬるくなった水を飲もうとしていたら
「折木さん。こちらに冷たいのがありますよ。良かったらどうぞ」
 千反田が保冷バッグから凍って溶けだしたペットボトルを取り出して、勧めてくれた。これは有り難い。
「悪いな。躰が熱いので遠慮なく貰うよ」
「どうぞ。そのために持って来たのですから」
 溶けていた分はそれほど多くは無いが何しろ特別冷たいので躰が冷えて行くのが判る。
「生き返った感じだよ」
「それは良かったです」
 千反田は嬉しそうに笑うと
「お腹は空いていませんか? お弁当……お握りを作って来たのです」
 昨年、千反田の家でご馳走になった握り飯は本当に美味かった。米から違うのだろうが、千反田の付けてた塩加減が抜群だったのだ。あの日の気候や皆の腹の空き具合を考えてあの味にしたのだと後で判って感心したのだ。
「今は良いよ。後で貰うかな。それより、出て来て家の方は良いのか?」
 やはり関心はそこへ行く。
「父の決断は変わらない様です。『自分の好きな道に進みなさい』と言ってくれたのですが、今更わたしにはどちらへ進んで良いか判りません。誰にも相談出来ないのです。折木さんを除いては……」
 確かに俺は、千反田の周りに居る他人の中では一番事情を理解しているのかも知れない。でも、だからと言って俺には千反田の進むべき道を示してやる事なぞ出来やしない。
「自分の進路は自分で決めます。でもその過程を相談出来る人が欲しいのです。心の底から心を許せる人が欲しいのです。今のわたしには、そんな事を頼める人は折木さん以外には居ません。駄目でしょうか?」
 千反田はそう言って距離を縮めて来た。元よりパーソナル・スペースが近い千反田だから殆ど俺と肌が合わさる様な距離になっていた。千反田の体温さえ感じられそうだった。
「千反田。俺は少しだけお前の事情を理解しているかも知れない。でも俺にはお前の進むべき方向なぞ示す事なぞ出来やしない。でも、一緒に考えて見届ける事は出来る。いや、それぐらいしか出来ないだろうと思う」
「折木さん……ありがとうございます! わたし……嬉しいです! 心の底から嬉しいです!」
 千反田はそう言って益々俺に迫るように近づく。千反田の胸の谷間も今や面の前にあるのだ。これは男として辛い。
「なあ、その水着の格好で迫られると辛いのだがな」
 正直に告白すると千反田は我に返り、頬を赤く染めながら
「あ、すいません。わたし、自分の事ばかりで……実は今年は色々あったので新しい水着を未だ買っていないのです。それで昨年のを着て来てしまいました。実は少し窮屈なんです」
 やはりそうだったのだ。弾けるような千反田の水着姿が眩しいのは俺の錯覚では無かった。
「今度一緒に泳ぎに行く為に、水着を買いに行きませんか?」
「ああ、それは構わないが」
「じゃあ約束です。新しい水着姿も折木さんに見て貰いたいですが、今日の姿も折木さんだけに見て欲しかったから、わたしは嬉しいです」
 千反田にそんな事を言って貰えて俺は幸せだと思った瞬間
「折木くん。交代だ」
 その声で我に返った。夏の太陽は更に輝いていた。


                                                                   
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