氷菓二次創作 「17歳の夏 神山にて 1」

  今年は蝉が鳴き出すのが早い。七月の終わり頃から鳴き出している。夏の風物詩とは言え、蝉もこの暑いのに大変だとは思う。
 夏休みに入った日。俺はあることに関わって、雨が降る中を千反田をバスに乗って探しに行った。いや、正確には迎えに行ったという事かも知れない。
 あれから、色々な事があった。正直に言うと、あれは千反田の個人的な問題であって、俺の問題ではない。しかし、恐らく千反田の胸の内を少しでも理解出来るのは千反田の周りでは恐らく俺だけだろうと言う自負も少しはあった。
 コンクールの出番には何とか間に合ったが、あの状態で千反田がきちんと歌える訳がなく、段林さんは千反田が歌うはずだった独唱の部分を別な者に交代させた。それが良かったのか悪かったのかは、色々な見方が出来るだろうが、少なくとも千反田の胸の内を考えれば悪くは無かったのだと思う。コンクールの結果は散々だったが……。

 あれから一度だけ千反田と逢った。いや正確には千反田一家と逢ったと言い換えた方が良いだろう。千反田の両親が俺に「お礼をしたい」と言って来たので、市内の喫茶店で千反田を含めて一度逢ったのだ。それについては別な所で述べる事もあるだろう。今回の話の趣旨からは外れた事だ。
 夏休みという事で姉貴が家に帰って来ている。本人は三年ということで就職活動が忙しいらしい。そこで俺にアルバイトのお鉢が回って来た。
「あんた、昨年市民プールの監視員のアルバイトやったでしょう? 今年も頼まれてくれないかしら?」
 昨年の事は良く覚えている。確か夏休みが終わってすぐの日曜だった。里志や千反田、それに伊原までもが俺の監査員ぶりを見にやって来たのだった。
「暑いから嫌だな」
「今年はアルバイト代上がったわよ。二日だけで良いのよ。どう?」
 姉貴の言い方は柔らかいが、どうやら断る事が出来そうな雰囲気は無かった。
「判ったよ。二日だけだな。それ以外はお断りだ」
「二日だけよ。じゃ連絡しておくわ」
「それで何時行くんだ?」
「明日と明後日」
 これだ! 結局誰かが具合が悪くなり、交代要員を探したが誰も見つからず、姉貴に声が掛かったらしい。だが生憎、姉貴は就活中で出られないので昨年経験した俺に白羽の矢が立ったと言う事らしい。
 それなら、それで構わないが出来れば今年は里志から電話が掛かって来ない事を望む。
 そう思っていたら、夜になって千反田から電話が掛かって来た。
「もしもし、千反田ですけど折木さんですか?」
「ああ、俺だけど」
「ああ、良かった。先日はどうもありがとうございました」
「いや、俺の方こそ、わざわざ礼を言ってくれるほどの事では無いのに申し訳無かったな」
「いいえ、とんでもありません。折木さんが居てくれなかったら、わたし……」
 電話の向こうで千反田が思い詰める様子を感じた。
「それで、その後はどうなんだ?」
「はい、お陰様で一応は以前の様になっています」
「そうか、置かれた環境は変わらずか?」
「はい、それはそのままです。というより、これは変わらないと思います」
 どこか諦めが感じられるような言い方が少し気になった。
「ところで、明日なんですが、一緒に図書館で勉強しませんか?」
 恐らく千反田としては他人で唯一事情が判っている俺に話というか自分の気持ちを聞いて欲しいのだろうと理解した。
「それが、明日と明後日は急にバイトが入ったんだ。昨年もやった市民プールの監視員さ」
「まあ、そうなのですか。では駄目ですね。次の機会に譲りましょう。では、わたしだけでも陣中見舞に行きますね。お弁当でも作って行きます」
『いやそれは……』
 そう言いかけて、言葉を呑み込んだ。逢えば何かしら千反田の気休めになれば。それはそれで悪くは無いと考えたからだ。
「そうか、それは有り難い。楽しみにしてるよ」
 そう言って電話を切った。

 翌日、朝からよく晴れていて、案の定市民プールは人が大勢来るだろうと推測出来た。
「じゃ頑張ってね」
 姉貴の声に送られて家を出る。市民プールまでは自転車で行く。この炎天下に歩くのは御免被りたいからだ。
 プールでは勝手知ったる何とかで、制服に着替えキャップを被り、トランシーバーを首から下げる。これで準備OKだ。
 監視台に座って監視を始める。殆どは何もせずに時間だけが過ぎて行く……がやはり暑い。用意していた水を呑んで汗の素を作る。
 一時間で交代となる。プールの各所に監視台があり、交代で監視をしている。基本一時間監視して三十分休憩でまた別の場所で一時間監視となる。そして営業時間が終わる午後五時までこれが続く。営業が終わった後は監視員全員で点検をして報告して終わるのだ。遅くても五時半前後には家に帰る事が出来る。願わくば明日は曇りであって欲しいと思った。

「こんにちは折木さん。昨夜の電話の通りに陣中見舞に来ました」
 不意に声を掛けられて、横を見ると千反田が保冷バッグを下げて水着姿で立っていた。昨年も着ていた、あの白い水着の上にピンクのパーカーを羽織っていた。昨年と違うのは同じ水着だが面積が少し小さくなった気がした。その分、出ることろは出て、引き締まる所はしっかりと引き締まっていたと言うことなのだろう。これは仕事の時には見てはいけないと思った。理性的にならなければ……それほど千反田の水着姿は今の俺にとって眩しかった。
 その千反田は両手で保冷バッグを躰の前で下げている。つまり自分の胸を挟むような格好となっている。昨年より深くなった胸の谷間にどうしても目が行ってしまう。炎天下でこんなモノを見せつけられたら堪ったものではないと感じた。
「どうかしましたか?」
 千反田の声で我に返る。
「いいや、何でもない。ありがとう!」
 その時
「交代だよ折木くん。休憩後は競泳プールの方お願いね」」
 その声で監視台を降りると監視台の横で立っていた千反田がニッコリと微笑んだ。

 プールの横に張られたテントの木陰に用意された椅子に座って、生ぬるくなった水を飲もうとしていたら
「折木さん。こちらに冷たいのがありますよ。良かったらどうぞ」
 千反田が保冷バッグから凍って溶けだしたペットボトルを取り出して、勧めてくれた。これは有り難い。
「悪いな。躰が熱いので遠慮なく貰うよ」
「どうぞ。そのために持って来たのですから」
 溶けていた分はそれほど多くは無いが何しろ特別冷たいので躰が冷えて行くのが判る。
「生き返った感じだよ」
「それは良かったです」
 千反田は嬉しそうに笑うと
「お腹は空いていませんか? お弁当……お握りを作って来たのです」
 昨年、千反田の家でご馳走になった握り飯は本当に美味かった。米から違うのだろうが、千反田の付けてた塩加減が抜群だったのだ。あの日の気候や皆の腹の空き具合を考えてあの味にしたのだと後で判って感心したのだ。
「今は良いよ。後で貰うかな。それより、出て来て家の方は良いのか?」
 やはり関心はそこへ行く。
「父の決断は変わらない様です。『自分の好きな道に進みなさい』と言ってくれたのですが、今更わたしにはどちらへ進んで良いか判りません。誰にも相談出来ないのです。折木さんを除いては……」
 確かに俺は、千反田の周りに居る他人の中では一番事情を理解しているのかも知れない。でも、だからと言って俺には千反田の進むべき道を示してやる事なぞ出来やしない。
「自分の進路は自分で決めます。でもその過程を相談出来る人が欲しいのです。心の底から心を許せる人が欲しいのです。今のわたしには、そんな事を頼める人は折木さん以外には居ません。駄目でしょうか?」
 千反田はそう言って距離を縮めて来た。元よりパーソナル・スペースが近い千反田だから殆ど俺と肌が合わさる様な距離になっていた。千反田の体温さえ感じられそうだった。
「千反田。俺は少しだけお前の事情を理解しているかも知れない。でも俺にはお前の進むべき方向なぞ示す事なぞ出来やしない。でも、一緒に考えて見届ける事は出来る。いや、それぐらいしか出来ないだろうと思う」
「折木さん……ありがとうございます! わたし……嬉しいです! 心の底から嬉しいです!」
 千反田はそう言って益々俺に迫るように近づく。千反田の胸の谷間も今や面の前にあるのだ。これは男として辛い。
「なあ、その水着の格好で迫られると辛いのだがな」
 正直に告白すると千反田は我に返り、頬を赤く染めながら
「あ、すいません。わたし、自分の事ばかりで……実は今年は色々あったので新しい水着を未だ買っていないのです。それで昨年のを着て来てしまいました。実は少し窮屈なんです」
 やはりそうだったのだ。弾けるような千反田の水着姿が眩しいのは俺の錯覚では無かった。
「今度一緒に泳ぎに行く為に、水着を買いに行きませんか?」
「ああ、それは構わないが」
「じゃあ約束です。新しい水着姿も折木さんに見て貰いたいですが、今日の姿も折木さんだけに見て欲しかったから、わたしは嬉しいです」
 千反田にそんな事を言って貰えて俺は幸せだと思った瞬間
「折木くん。交代だ」
 その声で我に返った。夏の太陽は更に輝いていた。


                                                                   

氷菓二次創作「二人の暮らし」

  夏休みの大学は講義が無いのにも関わらず、結構な学生で賑わっています。図書館に勉強に来る学生も結構います。
 神山から帰り、わたしも研究中心の生活に戻りました。今は、共同研究をしている相方が休みを取っています。思えばお正月の休みに、よく奉太郎さんと再会したものだと今更ながら思います。そんな事を帰ってから奉太郎さんに言ったのですが、奉太郎さんの答えは意外なものでした。
 いつもより少し早くアパートに帰ります。夏の京都は本当に暑く冷房なしては過ごせません。タイマーを掛けて部屋を出たので、帰った時には部屋は涼しくなっていました。
 早速、夕飯の支度に取り掛かります。お米を研いで、炊飯器にかけてスイッチを押します。御飯が炊ける間に幾つかおかずを作ります。今日は肉じゃがと野菜サラダに鯵の干物にしました。簡単に作れるものばかりで奉太郎さんには申し訳ないと思います。休みの時にじっくりと手の掛かるものを作ってあげようと思いました。
 じゃがいもはメークインです。つるりとした表面は皮も簡単に剥けます。人参も同じように皮を剥き、玉ねぎは剥いて縦に半分に切り、それを大雑把にスライスして行きます。きのこも幾つか入れます。今日はしめじとエリンギにしました。
 玉ねぎ、人参、きのこ、それに牛肉のコマ肉を入れて、醤油、砂糖、酒、みりん等を入れて水を適量入れて火に掛けます。煮えて来たら、じゃがいもを入れます。味を調整する為に化学調味料を僅かに入れます。こうすると醤油の角が取れるのです。忙しい時は、醤油などの調味料の代わりに市販の汁の素を代用する時もありますが、それは奉太郎さんには秘密です。
 さあ、御飯も炊けました。肉じゃがも美味しそうに煮えて来ました。奉太郎さんが帰って来ました。
「ただいま~良い匂いがするな」
「おかえりなさい。今日は『肉じゃが』にしました」
「それは楽しみだな。汗を掻いたから先にシャワーを浴びるから」
 奉太郎さんはそう言って浴室に消えて行きました。その間に鯵の干物を焼く事にします。
 焼きあがって食卓に並べていると奉太郎さんが出て来ました。
「ビールでも飲みますか?」
「そうだな、缶ビールあったか?」
「買ってありますよ。よく冷えていると思います」
 缶ビールを冷蔵庫から出し、夕食が始まります。
「大学は夏休みでも結構人が居るのだろう?」
「そうですね。お正月と違って夏休みは結構な学生が出入りしていますからね」
「あの時とは大違いという訳だ」
 やはり奉太郎さんもお正月に出会った事を思い出したのでしょう。
「でも、本当にあの時良く出会ったと、今更ながら想います」
 わたしの言い方が可笑しかったのか、奉太郎さんは缶ビールを食卓に置いて口を抑えて目が笑っています。
「どうかしたのですか?」
 わたしは不思議に思い奉太郎さんに尋ねます。すると
「悪い、そんなつもりでは無かったのさ。怒らないと約束してくれるか?」
 何の事でしょうか? わたしには怒る理由はありません。
「はい。それは良いのですが、あの時、何かあったのですか?」
 わたしはあの時は本当に偶然出会ったと思っていました。
「実は……本当の事を言うよ。あの時、俺が担当していた農学部の教授の講演会は俺が会社に提案して採用された案件だったのさ」
 どういう事でしょうか? 確かに、あの教授の講演会が学内であるのは珍しい事ではありました。
 わたしが不思議な表情だったのでしょう奉太郎さんは
「お前が大学院の修士課程に進んだとは、里志や伊原から聞いていた。だが、今更ながら面と向かってお前を訪ねに行く訳にも行かない。そこで、あの講演会を企画したんだ。それも学内のホールで行うとね。そうすれば堂々と学内を歩き回れる」
「まあ、そんな事だとは知りませんでした。でも、仕事で学内に来てもすぐには訪ねて来ては来れませんでした」
「それはそうさ、まず仕事が先さ。それに……」
「それに?」
「あの時、お前に誰か相手が居たら俺は黙って去るつもりだった」
 この時の奉太郎さんの表情は少し曇りました。
「そんな! 誰も居ません! わたしは奉太郎さん以外の人と一緒になるつもりはありませんでした。他の誰かと一緒になるなら、一生独身でも構わないと覚悟を決めていました」
 こんな事を奉太郎さんに言ったのは初めてです。顔から火が出るほど恥ずかしかったです。
「だから、お前が未だに誰も相手が居ないと判った時は本当に嬉しかったよ。そこで、偶然を装ってあの時出会う様にしたのさ……これが真実なんだ」
 わたしは、あまりの事に呆然としていました。
「怒ったか?」
 その言葉にわたしは、奉太郎さんと並んで隣に座ります。
「おいどうした?」
 怪訝そうな表情の奉太郎さんの手を取って
「そんなにまで想っていてくれて、本当にありがとうございます! わたし、幸せものです!」
 そうです。そうなんです。あの時から変わったのです。わたしの暮らしは灰色から薔薇色へと。まるで生まれ変わったかの様に変わったのです。本当にわたしは幸せ者です。この握った手は一生離さないつもりです。
「える。俺もお前以外の誰とも一緒になる気は無かった。だからあんな細工をしたんだ」
 奉太郎さんの想いが伝わって、本当に心の底から喜びが湧き上がります。奉太郎さんはわたしを抱きしめると優しく口付けをしてくれました。躰が蕩けるような情熱的な口づけでした。
 今夜は何処かで花火の催しがあるのでしょう。花火が上がる音が聴こえて来ます。今夜は熱い夜になりそうです。

                                                         <了>

氷菓二次創作「摩耶花の悩み」

  楽しい日々はすぐに過ぎ去ってしまいます。明日は京都に帰るという日でした。親の持たせてくれる様々なものを荷造りをしていました。奉太郎さんと一緒にしていたのですが、その時、わたしの携帯が鳴りました。相手は摩耶花さんでした。
「明日帰ると言う忙しい日にゴメンね」
 そんな摩耶花さんの言葉に「何かある」と直感しました。
「荷造りは終わりましたから大丈夫ですよ」
 奉太郎さんの表情を伺うと静かに頷いてくれました。
「何かあったのですか?」
「う~ん。ちょっと聞いて欲しい事があるのだけど。ちーちゃん忙しいから、余計な事を持ち込みたく無かったのだけど、意見なんかは要らないのだけど、ただ愚痴を聴いて欲しくて」
 摩耶花さんは弱音を吐かない人です。自分で出来る事はちゃんと考えて行う方です。わたしみたいにすぐに奉太郎さんに頼る様なことはしません。そんな摩耶花さんが、そんな事を言うのは余程の事だと思うのです。
「これからなら時間を作れますから。何処かで逢いましょう」
「ごめんね。いいの? そうしてくれると嬉しいけど」
「何言っているのですか、高校以来の親友じゃありませんか。わたして良ければ時間の許す限り都合付けますよ」
「ほんと、ありがとうね」
 こうして、わたしは明日京都に帰るという日、神山市内の喫茶店で摩耶花さんと二人だけで逢う事になりました。電話を終えてから奉太郎さんに事情を説明すると、
「こっちの事は気にしなくて良いから伊原に付き合ってやった方が良い」
 そう言ってくれたので、折り返し約束を取り付けました。

 市内までは奉太郎さんが送ってくれました。レンタカーは明日返すのですが、借りておいて良かったと思いました。
「連絡くれれば迎えに来るから」
 奉太郎さんはそう言って帰って行きました。遠ざかって行く車を見ながら、わたしは幸せだと感じました。別にこれから逢う摩耶花さんが不幸だと言うのではありません。自分が如何に恵まれているのかを理解したのです。
 待ち合わせの喫茶店には既に摩耶花さんが来ていました。入り口から入って右手の一番奥に座っていました。わたしの姿を見つけると、小さく片手を挙げて合図してくれました。その席の向かいに座ります。店員さんが注文を取りに来てくれます。
「アイスティーをお願いします」
「かしこまりました」
 店員さんは氷と水の入ったグラスを置いて去って行きました。
「ホントゴメンね。明日帰るのに」
 摩耶花さんは、またわたしに謝りました。
「いいんですよ。もうやることはありませんから。今日はお付き合いしますよ。それより何かあったのですか」
 わたしの質問に摩耶花さんは窓の外を眺めてから
「今ね、仕事の事で悩んでるの」
 そう言って自分が注文したアイスコーヒーに挿したストローに口を付けました。
「上手く行って無いのですか?」
「ううん。連載は順調よ。順調過ぎるぐらい。そこが問題になりかけてるの」
 どうのような事でしょうか? 上手く行っている事が問題とは……。
 その時店員さんがアイスティーを持って来てくれました。一口口を着けました。
「今、連載を二本抱えてるの。両方とも月刊誌だから、主婦をやりながらでも何とかなっているのよ。でも、ふくちゃんには申し訳無いと思ってるの。娘の沙也加も最近は家のお手伝いをしてくれる様になったし、家族には感謝してる」
「では、何が問題なのですか?」
 わたしの質問に摩耶花さんは正面を見て
「新しく、週刊誌の連載の仕事が舞い込んだの。週刊誌は過酷よ。生活の全てを注ぎこまないとならなくなるの」
「やりたくないのですか?」
「まさか……だって……」
 摩耶花さんは、わたしでも知っている少女漫画の週刊誌の名を挙げました。
「あそこに連載を持つのは漫画家にとって最終目標みたいなものよ。特に今みたく色々な雑誌が廃刊に追い込まれる昨今なら特にそうなのよ」
「でも、家族を捨てて、生活を変えてまでは……と思っているのですか?」
「そうなの。迷ってるの」
「福部さんは何と言ってるのですか?」
「ふくちゃんは、『僕が全力で支えるから』って言ってくれているけど、そんなの無理してるに決まってる。ふくちゃんだって仕事があるし、予算の時期なんか毎日遅くまで仕事してるし……今だって無理させてるのは判っているのよ」
 摩耶花さんはそう言ってまた窓の外を眺めました。表では親子連れが歩いていました。夏休みに入るので子供は楽しそうです。
「連載引き受けたら。もうあんな事出来ない。そんな気がする」
 摩耶花さんの悩みは理解出来ました。でもわたしは何と言ってあげたら良いのでしょうか。『いいチャンスだから仕事一本にしなさい』と言うか『家族が大事じゃ無いのですか』と言うか、わたしも迷っていました。
「ゴメンね……ちーちゃんに余計な事を聴かせてしまって……」
 わたしならどうするでしょうか? わたしに当てて考えてみると、新しい研究に取り組む様な事ですね。それも成果によっては素晴らしい発見があるかも知れない分野という事ですね。これは難しいですね。今のわたしには子供も居ませんから奉太郎さんの返事次第ですね。でも、わたしなら引き受けないと思います。わたしの最初の目標は『陣出の人々に役立つ品種を作り出す事』だからです。研究者として一生を過ごす覚悟が無ければ無理な事だと思いました。
 でも、それをそのまま摩耶花さんにはあてはめられません。彼女は高校生の時、いいえそれ以前から漫画家になりたくて書いていたのです。その最終目標が手を伸ばせば掴める状態になっているのです。これは迷いますね。もし、ここに奉太郎さんが居たら何と答えるでしょうか。そんな事まで考えてしまいました。その時でした。
「どうした。随分悩んでいるじゃないか」
 店の入口の方から声がしました。摩耶花さんは「ハッ」としてその方向に顔を向けます。
「河内先輩!」
 わたしも高校の時に幾度か顔を見た事があります。摩耶花さんと組んで学園祭で同人誌を売った先輩です。あの同人誌は伝説になったそうです。確か摩耶花さんよりも少し早くプロになったと聞いています。確か今では東京で仕事場を持って幾つもの作品を連載してると伺っています。
「どうしてここへ?」
「伯父の法事でね、帰って来たんだよ。東京に帰る前に一目逢いたくて仕事場に連絡したら、アシスタントの子が外に出ているって教えてくれてね。それならもしかしてここかなと思ったんだ」
「そうでしたか……でも」
「あんた。あたしと違って着実に階段を登っているよ。わたしみたいに無理を重ねて失敗をしたら元も子もないからね」
「でも、先輩は……」
「一気に売れていい気になってしまったんだね。今では反省してるよ。やり直す事が出来ただけでも良しとしなくちゃね。あんた。一番大事な事を忘れているよ。今までの作品のアイデアが何処から出て来ていたのか、忘れた訳じゃ無いよね」
「先輩……」
「それは、あんた一人の力じゃ無かったろう。家族に支えられていたんじゃ無いのかい?」
「あう」
 摩耶花さんがうめき声みたいな返事をしました。真実を突かれて驚いたようです。
「一時は良いと思うけど後が続かないんじゃないかな。そうして、わたしみたいに失敗をする……同じようにやり直せたから良いけど。その時家族が傍に居てくれるとは限らないよ」
 河内先輩は同じ道を歩いた事のある人だけが持つ言い方で
「きっと連載の条件だって良くないんだろう。出版社として見れば、保険みたいなものだと思うよ。心の底から、あんたの作品が欲しい訳じゃ無いと思うな。もう一度じっくり考えてから返事をした方が良いとわたしは思うけどね」
「先輩は……」
「同じ高校出身の漫画家が同じ様な失敗をしたら、いいネタになるかも知れないけどね」
 河内先輩はわたし達の席に座って
「実はあの出版社とは一時連載していた事があってね。内情は良く判るつもりだよ。あんたは、わたしと違って未だまだ大きくなる存在だから。ここで躓いては駄目だよ」
 もう結論は出たも同然でした。
「今回、断っても、いい作品を書いていたら、また依頼が来るよ。それはわたしが保証する」
 河内先輩はそう言って優しく笑顔を見せました。

 摩耶花さんは河内先輩と一緒に帰って行きました。わたしは奉太郎さんに連絡をして迎えに来て貰います。
 商店街の角で待っていると、見慣れた車が静かに停まりました。運転席には奉太郎さんがいます。助手席に乗ると静かに発車しました。わたしは奉太郎さんに尋ねてみます。
「もし、わたしが博士課程に進みたいと言ったらどうしますか?」
 奉太郎さんは少しだけ考えてから
「そうだな……二年ならそれも良いかもな。来年博士課程に進むのか?」
「いいえ、訊いてみただけです。今は未だ白紙です。子供の事もありますし。こういうのはわざと遅らせると授からないと聞いていますし」
 二年後にすぐに妊娠するとは限りません。
「でも、授かるかも知れないしな。それは誰も判らないよ。研究をする必要があれば進めは良いと俺は思っている」
 やはり、わたしが考えた通りでした。きっと奉太郎さんなら、こう言うと思っていました。
 明日は京都に帰ります。日々の暮らしが帰って来ます。二人で一緒に頑張らないとなりません。やはり、わたしは幸せ者だと想うのでした。

                                                                了

氷菓二次創作「夫婦となる日」

 楽しいお酒を飲んだ後、実家に帰ったところまでは、薄っすらと覚えているのですが、奉太郎さんに抱きかかえられて部屋に入ったあたりで記憶がなくなりました。
 目が醒めると、東の窓がぼんやりと明るくなっていました。枕元の時計を見ると四時を少し過ぎていました。隣では奉太郎さんが寝ていてその手が、わたしにかかっていました。
 普段ならこんな事はしません。きっと酔って何かわたしが言ったのだと思います。何を言ったのか気になります。
 奉太郎さんは酔ったわたしに寝間着代わりの浴衣を掛けてくれていました。その上から夏掛けが掛かっていました。
 布団から起き上がると、自分が下着姿なのに気が付きました。昨夜着ていた服は枕元にきちんと畳んで置かれていました。奉太郎さんが脱がせてくれたと思うと少し恥ずかしいです。
 そっと床を抜け出し、実家に置いてある自分の箪笥から新しい下着を出して、バスタオルを一緒に持って、浴室に向かいます。
 心地よいお湯が躰を流れて行きます。京都のアパートのお風呂は狭いので一緒に入る事が出来ません。もし奉太郎さんが起きていたら、多分誘っていたと思います。夫婦ならたまには一緒にお風呂に入りたいです。
 温かいお湯が躰の隅々まで流れて行くと、やっと躰が目覚め出すのが判ります。昨夜は、楽しい会でした。心の底から楽しかったです。普段、奉太郎さんと二人だけの生活も、それはそれで充実しているのですが、昨夜は本当に心と言うか、気分は高校生に戻っていました。
 そんな事を考えていたら、浴室のドアが開いて奉太郎さんが顔を出しました。
「目が覚めたのか、大分飲んでいたが気分はどうだ?」
「はい、大丈夫です。それより、酔って正体を無くしてしまい、すみませんでした」
「なに、気にする事はない」
「一緒に入りませんか? 京都のアパートでは一緒に入る事は出来ませんし、この時間なら誰の目も気にせずに済みます」
「そうか……そうだな。朝風呂と洒落込むか」
 そう言って奉太郎さんも浴室に入って来ました。シャワーを掛けて躰を洗ってあげます。思えば本当に不思議です。今年のお正月に再会して、夏の今にはもう夫婦になってこうしてるなんて、信じられない事でもあります。
 お湯で火照った躰を浴衣に包み、バスタオルを持って縁側に出ています。早朝の風が心地よく躰を抜けて行きます。
「いい風だな。クーラーの風とは違うな。この心地よさは京都では味わえないな」
 縁側に並んで涼んでいると奉太郎さんが、わたしに顔を向けて優しく語りかけてくれます。嬉しくって愛おしくて、少しだけ自分の躰を奉太郎さんに預けて
「そうですね。やはり故郷は大事にしなくてはなりませんね」
 そんな事を尤もらしく言ってみます。奉太郎さんはわたしの肩を抱いて自分の方に引き寄せます。
 顔を近づけると優しく口付けをします。こんなに幸せで良いのかと思いますが、今はこの心地よい空間に身を任せようと思いました。

 その日、奉太郎さんは少し用事があるので、それを済ませに出かけました。わたしも街まで一緒に出かけます。買い物をするつもりです。
 買い物を終えて奉太郎さんと待ち合わせをしている場所に向かいます。この時、面白い事に気が付きました。思えば、奉太郎さんと神山の町を二人でゆっくりと歩いた事は高校の時以来だと気がついたのです。
 待ち合わせの場所では奉太郎さんが先に待っていてくれました。
「待ちました?」
「いいや、今来た所だよ」
「お茶でも飲みましょうか?」
「ああ、いいな。何処か良い場所知っているか? 高校の時通っていた『パイナップルサンド』は引っ越してしまったからな」
「じゃあ、『バイロン』に行きませんか?」
「あそこは洋菓子店だろう?」
「奥に喫茶コーナーがあるんですよ。知りませんでした?」
「ああ、正直言ってケーキを買った事は余り無かったからな」
 相談が纏まって『バイロン』に向かいます。
 店に着いてガラス戸を押して開けます
「いらっしゃいませ」
「喫茶でお願いします」
「お二人ですか」
「はい、二人です」
「こちらにどうぞ」
 白い襟の黒いワンピース姿の店員さんが店の奥に案内してくれます。その後を着いて行くのですが、普通の人なら何でもないこんなシチュエーションでも、何だがドキドキします。今になってやり残した事を取り戻している感じです。でも、思えば、そうなのかも知れません。奉太郎さんと一緒になって、少しずつ色々な体験をして、段々と夫婦になって行くのかも知れません。
 そして、彼と一緒になった喜びを実感するのだと思うのです。


                                                             <了>

氷菓二次創作「夏の宵」

 旧暦の七月のことを「文月」と言う。今の八月にあたるが、旧暦ではない新暦の七月、神山に帰る用事が出来た。と言うより作ったと言う方が正解だろう。
 実は里志から『夏休み前に一緒に呑まないか?』と誘いがあったのだ。要は里志夫婦と俺たちで古典部のミニ同期会を行おうと言う趣旨なのだ。
 勿論、えるは先月に植えた稲の生育も見てみたいと言うし、俺も雑用があった。俺の方は電話でも済む話だが、会ってやり取りすれば簡単に終わる様なものだった。
 金曜の夕刻、新幹線を岐阜羽島で降り、駅前のレンタカーで予約をしていた車を借りる。神山に行くだけなので小さな車にした。運転をしながら未だ明るい車窓をえるが眺めていると不意に
「わたし、今回の事で改めて自分が農家の娘であると感じました。大学で研究をしていて実家の農業とは縁遠くなったと思っていましたが、やはり育った環境や躰に染み込んだものはそう簡単に変えられないものだと認識したのです」
 えるの想いは俺も良く判る。普段、京都に住んでいても、たまに神山に帰ると妙に心が落ち着くのも俺なりの躰に染み込んだものの仕業なのだろう。
「植えた責任がありますから、たまには帰って生育を見ないとなりませんね」
 道の両側に続く水を張った田圃を見ながらえるは自分に言い聞かせるように呟いた。

 程なく陣出の千反田家に到着した。旅支度も解かないうちに里志と伊原が車で迎えに来た。行きは一緒に行って、里志の家に車を置いて、一緒に呑む店までは歩いて行き、帰りはタクシーで帰るという算段だ。
「ちーちゃん久しぶり! 元気そうで良かった!」
「摩耶花さんも元気そうで本当に良かったです」
 どうやら今日は子供は里志の親に預けて来たらしい。えるは一緒に車に乗りながら
「神山も今年は随分生育が良いみたいですね」
 そんな事を言うと里志が
「何でも今年は気温も高いみたいで、これから雨が降ってくれないと水不足の可能性もあると言っているよ。現に毎日雨模様で農家も困ってるそうだよ」
 神山市役所で広報の仕事をしている里志は神山の地域の情報に詳しい。
 車を少し走らせた所でえるが
「すいませんが、ここで少し停めて貰えませんか? ここ、この前わたしが植えた田圃なのです」
 見ると、たしかにあの田圃だった。暗く成り始めていて俺は良く判らなかった。その点やはりえるは違うのだろう。そこが農家の娘なのかも知れない。
 えるは車を降りて、田圃のあぜまで歩いて行き、手を田圃に入れて水の感触を確かめたり、苗の生育を確かめていた。それは研究者と言うよりも普通の農家の娘としての姿だった。
「ありがとうございました。これで安心しました」
「千反田さん。ここってこの前、水梨神社の神事で植えた田圃?」
「そうなのです。わたしも早乙女になって植えたものですから、その後がどうなったか確かめたくて」
「そうよね。自分の作品と同じだものね。ちゃんと確かめたいわよね」
 伊原が作家らしい感想を述べた
「そう言えば摩耶花さんは今度本が出るとか?」
「ああ、大した事じゃないのよ。連載していたものが纏まったのでね」
「でも、それって凄いです。ちゃんと証がこの世に残るって事ですから」
「大げさよ。連載していれば何時かは出るものだから」
 俺には良く判らないが、それって連載をするまでが大変なのでは無いだろうか。そんな事を考えたが口にするのは止めた。余りにも当たり前の事の様に思えたからだ。

 里志が選んだ店は、色々な料理をアレンジして出す店だった。売りは神山で採れた米で作った吟醸酒が呑める事だった。それを注文して冷酒で乾杯をする。
「それでは再会を祝して」
 里志の音頭で小さなグラスを交わらせた。
「うん、旨いね! 果実酒を思わせるフルーティーな香りとキリッと引き締まった味わいが口に広がると得も言われぬ余韻を残すね」
 実に里志らしい評価の仕方だと思った。確かに他の吟醸酒とは味わいが若干違う。
「この酒にはブルーチーズが合うんだけど。この店はブルーチーズに火を入れて若干溶かして、それを薄い生地で包んだのが合うんだ。これを食べてから酒を呑んでご覧」
 里志のお薦め通りに熱々の生地を食べてから酒を口に含む。するとチーズの濃厚さが酒とマッチして口の中で得も言われぬ味わいとなって喉を降りて行った。
「ああ、凄く美味しいです。濃厚でそれでいて味わい深くて、こんな食べ方があったなんて……わたし、お酒は強くありませんが、これなら大丈夫な気がします」
 そうか、忘れていたが、こいつは酒には強くなかった。高校の時にチョコレートボンボンでやらかしたのだった。今はあの頃よりも強くなってはいるが基本的には変わらないだろうと思う。
「そうでしょう。この店の売りの一つなのよ。それから、これと組み合わせても美味しいのよ」
 伊原がそう言って出したのは、大ぶりの茄子に味噌が掛かった一品だった。
「これは?」
 怪訝そうに見るえるに伊原が
「兎に角食べて見て! 何か言うのはそれからよ」
 茄子は俺の見方が間違っていなければ「米茄子」だろう。今が旬の野菜だ。確か高地が一番の産地だと記憶している。えるは伊原にいわれた通りに箸でカットされた茄子を摘んで掛かっている味噌や付け合わせの針生姜と一緒に口に入れた。
「ああ、これ……なんて濃厚でそれでいてサッパリとしていて……このお味噌普通の味噌じゃ無いですね」
 えるの驚きの表情をニヤつきながら見ていた伊原は
「この茄子は米茄子で、味噌は京都の西京味噌に胡麻のペーストをたっぷりと入れて砂糖を加えてお酒で伸ばして寝かせたのよ。それを油で揚げた米茄子にたっぷりと掛けたの、上に針生姜を乗せたのよ。どう、これを食べてからお酒を呑んでみた感じは。悪くないでしょう?」
 俺も同じように茄子を食べて酒を呑む……胡麻味噌の濃厚さが酒で程よく洗い流されて行く。その過程が実に芳醇で楽しい。酒を呑む事がこんなにまで楽しい事だとは思ってもいなかった。
「美味しいです、料理もお酒も」
 楽しい酒になった。料理が旨くて酒も良い。相手は言うまでも無い。これ以上何を望もうか……。
「神山も本当に外国人観光客が多くなったけど、ここは地元の人間しか知らないからね」
 里志はそう言って美味そうに吟醸酒を呑んで追加した。
「ふくちゃん。今日はペースが早いんじゃない。呑みすぎないでね」
 伊原が里志の事を心配するのは昔ながらだと感じた。里志も言われてペースを落とす様な輩ではない。伊原もそれを判っていて言わずにはおけないのだろう。そんな感じも昔のままだった。

「それじゃまた!」
 別れの挨拶をしてタクシーに乗り込む。
「陣出の千反田までお願いします」
「判りました」
 走り出した車の中でえるは既にうたた寝をしている。思えばよほど楽しかったのだろう。随分と楽しそうに酒を呑んでいた。そんなえるを躰で受け止めながら、たまにはこうやって帰って来るのも悪くは無いと思うのだった。
 千反田家に帰って来て布団を敷いて貰い、えるを寝かせる。襖を閉めると二人だけの空間だ。シワになるので洋服を脱がせて、下着姿にさせて布団に寝かせる。夏掛けを掛けると、えるが俺に抱きついて来た。寝ぼけているのだろうか?
「奉太郎さん……わたし、酔っ払ってしまいました……今夜はこのまま抱いていて下さい。わたしが何処にも行かないように……」
 えるなりに何かを感じたのだろう。俺は一緒に横になると腕を回してえるの躰をしっかりと抱きしめるのだった。
 夏の陣出の夜が静かに更けて行く。
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