第2話 栞子さんと大輔の「愚者のエンドロール」
6月に入っていた。俺はあれから栞子さんとアニメ「氷菓」の原作のエピソードを休みの日に二人で母屋で見ていた。
原作の「氷菓」はアニメだと5話までなので、午前中から見始めて昼食を挟んで結局午後2時近くまで掛かって見てしまった。
「すいません。結局仕事までさしてしまって……」
残った時間で、昨日やり残していた仕事の続きをしたのだ。俺としては栞子さんと二人だけの時間を共有している様な感覚だったので、無理やりと言う感じは無かった。
それに、あの田中から何か繋ぎでもつけて来るのでは無いかと言う思いもあり、俺は彼女の傍に居てやりたかった。例え役に立たなくてもだ……
「一休みして下さい」
栞子さんが大き目の氷が入ったアイスレモンティーを持って来てくれた。
「お昼のおかずも、これも文香が作ったものですけど」
そうなのだ、篠川姉妹の妹の篠川文香はこの家の炊事を担当している。俺の卒業
した高校の在学生だが滅法料理が上手い。栞子さんも炊事をするが、妹ほど得意ではなさそうだった。
「あ、すいません。自分の好きで始めた事ですから」
実際俺は仕事と言うつもりでやっていた訳では無いので、栞子さんの気遣いが嬉しかった。
「でも、最後でえるが涙を流したシーンは俺もちょっと来ました。原作でも触れていましたが、原作よりも訴える演出でしたね」
そう、俺は今日のアニメを見る前に既に原作の「氷菓」を読了していた。俺が読了出来たのは、原作への興味もそうだが、まず本が薄かった事だ。それだけでも心理的には大分違う。
「そ うですね。あのシーンは私もアニメの演出は良いと思いました。それと心に残ったのは『きっと十年後この毎日の事を惜しまない』と言う言葉でした。正直言っ て、大輔くんと出会って好意を持った時に、母の様に全てを捨てて行ってしまう自分が怖かったのですが、その時に私はこの言葉を言えるのか? と自問しまし た。その答えが、後悔しないのは大輔くんと共に過ごした時間なのだと判ったからです……そして大輔くんのあの言葉が決定的でした」
梅雨の午後、うっすらと晴れ間が覗き、夏の暑さを少し感じさせてくれる午後、栞子さんは俺に自分の想いを打ち明けながら傍に座り込む。
その距離は体温を感じさせる程近く、まるで千反田える嬢を思わせた。
「大輔くん……」
栞子さんが目をつむり、顎を少し持ち上げ突き出す様にした。誰でも判る行為だった。俺は栞子さんの頬を優しく二つの手で引き寄せて自分の唇を近づける……そしてまさに触れようとした瞬間……カーテンが掛かったガラス戸を開けて入って来た人物がいた。
「ただいま~あれ? 五浦さん今日はお休みじゃ無かったんだ……ああ! 御免ね、邪魔しちゃって」
にやけた顔をしながら妹の篠川文香が俺達の脇を通って母屋に消えて行った。
「……大輔くん、今週の放送から「愚者のエンドロール」編が始まるんですよ」
真っ赤に頬を染めながら、栞子さんはわざとらしく話題を変えたつもりだろうが、まるで小学生なみだ。
俺はそんな栞子さんに構わず彼女を軽く抱きしめて唇を重ねた……栞子さんの腕にも力が入る。
俺達は梅雨の午後、店内で暫くの時間そのままでいた……
暫く後、俺は仕事の続きを始めていた。何もやることが無かった訳では無く、どうせなら切りの良い処までやっておきたかったからだ。栞子さんも一緒に付き合ってくれる。
その横顔を見ていたら、ふと笑い顔になった。
「どうしたのですか?」
明らかに何かを思い出し笑いしている感じだったので、思わず口をついて出たのだ。俺の質問に栞子さんは顔を赤くしながら
「こ の前、母と会った時に私の様子を見ていきなり『五浦くんに手でも握ってもらった?』って訊かれて、動揺して母のペースに載せられそうになったんです。その 時に大輔くんの声が頭に響いて、戻れたんです。でもそれが今なら母は「キスでもして貰った」とか言うのでしょうね。そうなったら私はどうなるのか、自分で も判らないと思ってしまったんです。今でも残っています。この感触を忘れない限り、私は大丈夫だと思います。あなたの事を一生忘れません」
恐らくは、そんなやりとりがあったであろうとは思っていたが、智恵子さんは並外れた洞察力の持ち主だと改めて感じさせてくれた。
「大丈夫です。栞子さんが何処かへ行くなら俺も一緒ですから」
そう力強く言うと栞子さんは明るく
「はい!」
そう言って笑顔を見せてくれた。
「大輔くん、これを」
栞子さんがそう言って俺に手渡してくれたのは「愚者のエンドロール」と書かれた文庫本だった。
「今週の放送からこの話に入ります。放映前に読まれておいた方が良いですよ」
見てみるとこの前の「氷菓」よりも大分厚い。本格的な長編の小説だ。それも日常のミステリーだ。正直俺には敷居が高いと思ったが栞子さんの手前、無下には断れない。どうしたものかと思っていると
「じゃあ、私が読まれる前に解説をしてみましょうか? そうなれば読み易くなるのでは無いでしょうか?」
そこまで言われては俺も断る訳には行かなかった。
「お願いします」
その言葉を聴いて栞子さんは静かに語り出した。
「『愚者のエンドロール』は「氷菓」に続く「古典部シリーズ」の第2作です。奉太郎達古典部が文化祭の自主制作の映画の脚本に関する事を解いて行くのですが、奉太郎が失敗して挫折を味わいます。後味のあまり良く無い作品と言えるかも知れませんね」
「挫折ですか……またしてもほろ苦い結末なんですね」
栞子さんは改めて俺の隣に椅子を持って来て座ると
「えるさんはこのぐらいパーソナルスペースが近いのでしょうね」
そう言って俺との距離を詰めて来た。栞子さんは俺の右側。つまり杖をはめていない方の腕が俺の右腕に触れている。柔らかな体温を感じる近さだった。
「奉太郎がアニメでも目を白黒させる訳ですね」
「こ の作品は冒頭から普通の入り方とは違っています。そこがこの話の肝要な処です。最後に意味を持ってきます。アニメでも同じになるかは分かりませんが、小説 ならではの書き方だと思います。そして奉太郎は新しい登城人物によって、踊らされてしまうのです……今日はそれくらいにしましょう。全部話してしまうと読 む楽しみが無くなりますからね」
栞子さんはそこまで言うと立ち上がろうとしてバランスを崩して、倒れそうになった処を俺が抱きかかえて支えた。
「すいません。ありがとうございます」
栞子さんが他人行儀な口を利いたと思ったら、母屋に通じる廊下に栞子さんの妹の文香が立っていて
「仲が良いのは嬉しいけど、もう夕飯だよ。五浦さんも一緒に食べて行って!」
笑いながらそう言って母屋に帰ろうとしてこちらに向き直り
「正直言うとね。母屋とか店に五浦さんが居てくれると、安心するんだ」
それだけを言い残すと文香は母屋に消えて行った。
「あの子、大輔くんを兄代わりに思い始めているのかも知れないです。私もその気持は判ります」
どうやら、いつの間にか俺はこの篠川家である程度の地位を占める様になったのだと感じたのだった。
結局、アニメ版の「愚者のエンドロール」の第1回が始まるまでには文庫を読み終える事が出来なかった。
アニメ版は若干の設定の違いはあるが、おおよそは同じだった。冒頭のチャットが携帯でのメールのやりとりに変わっていたが、その後のチャットは同じだった。
俺は目眩を抑えながら、二回目の放映前には読み終えた。
「随分頑張りましたね。段々良くなってる様な気がします」
栞子さんは俺が以前よりも本が読める様になったと思ってるらしかった。まあ、読める様になったのは事実だが、目眩は治っていない……
「如何でしたか? 大輔さんの感想を聴きたいです。今日終わったら聴かせてくれますか?」
栞子さんは、スクータを降りた俺を表で待っていて、朝の挨拶の代わりにそう言って微笑んでいた。
どうやら、この調子で俺は家に居る時間よりも篠川家に居る時間が長くなりそうだ。
……だが、それも悪く無いと俺は思い始めていた。
6月に入っていた。俺はあれから栞子さんとアニメ「氷菓」の原作のエピソードを休みの日に二人で母屋で見ていた。
原作の「氷菓」はアニメだと5話までなので、午前中から見始めて昼食を挟んで結局午後2時近くまで掛かって見てしまった。
「すいません。結局仕事までさしてしまって……」
残った時間で、昨日やり残していた仕事の続きをしたのだ。俺としては栞子さんと二人だけの時間を共有している様な感覚だったので、無理やりと言う感じは無かった。
それに、あの田中から何か繋ぎでもつけて来るのでは無いかと言う思いもあり、俺は彼女の傍に居てやりたかった。例え役に立たなくてもだ……
「一休みして下さい」
栞子さんが大き目の氷が入ったアイスレモンティーを持って来てくれた。
「お昼のおかずも、これも文香が作ったものですけど」
そうなのだ、篠川姉妹の妹の篠川文香はこの家の炊事を担当している。俺の卒業
した高校の在学生だが滅法料理が上手い。栞子さんも炊事をするが、妹ほど得意ではなさそうだった。
「あ、すいません。自分の好きで始めた事ですから」
実際俺は仕事と言うつもりでやっていた訳では無いので、栞子さんの気遣いが嬉しかった。
「でも、最後でえるが涙を流したシーンは俺もちょっと来ました。原作でも触れていましたが、原作よりも訴える演出でしたね」
そう、俺は今日のアニメを見る前に既に原作の「氷菓」を読了していた。俺が読了出来たのは、原作への興味もそうだが、まず本が薄かった事だ。それだけでも心理的には大分違う。
「そ うですね。あのシーンは私もアニメの演出は良いと思いました。それと心に残ったのは『きっと十年後この毎日の事を惜しまない』と言う言葉でした。正直言っ て、大輔くんと出会って好意を持った時に、母の様に全てを捨てて行ってしまう自分が怖かったのですが、その時に私はこの言葉を言えるのか? と自問しまし た。その答えが、後悔しないのは大輔くんと共に過ごした時間なのだと判ったからです……そして大輔くんのあの言葉が決定的でした」
梅雨の午後、うっすらと晴れ間が覗き、夏の暑さを少し感じさせてくれる午後、栞子さんは俺に自分の想いを打ち明けながら傍に座り込む。
その距離は体温を感じさせる程近く、まるで千反田える嬢を思わせた。
「大輔くん……」
栞子さんが目をつむり、顎を少し持ち上げ突き出す様にした。誰でも判る行為だった。俺は栞子さんの頬を優しく二つの手で引き寄せて自分の唇を近づける……そしてまさに触れようとした瞬間……カーテンが掛かったガラス戸を開けて入って来た人物がいた。
「ただいま~あれ? 五浦さん今日はお休みじゃ無かったんだ……ああ! 御免ね、邪魔しちゃって」
にやけた顔をしながら妹の篠川文香が俺達の脇を通って母屋に消えて行った。
「……大輔くん、今週の放送から「愚者のエンドロール」編が始まるんですよ」
真っ赤に頬を染めながら、栞子さんはわざとらしく話題を変えたつもりだろうが、まるで小学生なみだ。
俺はそんな栞子さんに構わず彼女を軽く抱きしめて唇を重ねた……栞子さんの腕にも力が入る。
俺達は梅雨の午後、店内で暫くの時間そのままでいた……
暫く後、俺は仕事の続きを始めていた。何もやることが無かった訳では無く、どうせなら切りの良い処までやっておきたかったからだ。栞子さんも一緒に付き合ってくれる。
その横顔を見ていたら、ふと笑い顔になった。
「どうしたのですか?」
明らかに何かを思い出し笑いしている感じだったので、思わず口をついて出たのだ。俺の質問に栞子さんは顔を赤くしながら
「こ の前、母と会った時に私の様子を見ていきなり『五浦くんに手でも握ってもらった?』って訊かれて、動揺して母のペースに載せられそうになったんです。その 時に大輔くんの声が頭に響いて、戻れたんです。でもそれが今なら母は「キスでもして貰った」とか言うのでしょうね。そうなったら私はどうなるのか、自分で も判らないと思ってしまったんです。今でも残っています。この感触を忘れない限り、私は大丈夫だと思います。あなたの事を一生忘れません」
恐らくは、そんなやりとりがあったであろうとは思っていたが、智恵子さんは並外れた洞察力の持ち主だと改めて感じさせてくれた。
「大丈夫です。栞子さんが何処かへ行くなら俺も一緒ですから」
そう力強く言うと栞子さんは明るく
「はい!」
そう言って笑顔を見せてくれた。
「大輔くん、これを」
栞子さんがそう言って俺に手渡してくれたのは「愚者のエンドロール」と書かれた文庫本だった。
「今週の放送からこの話に入ります。放映前に読まれておいた方が良いですよ」
見てみるとこの前の「氷菓」よりも大分厚い。本格的な長編の小説だ。それも日常のミステリーだ。正直俺には敷居が高いと思ったが栞子さんの手前、無下には断れない。どうしたものかと思っていると
「じゃあ、私が読まれる前に解説をしてみましょうか? そうなれば読み易くなるのでは無いでしょうか?」
そこまで言われては俺も断る訳には行かなかった。
「お願いします」
その言葉を聴いて栞子さんは静かに語り出した。
「『愚者のエンドロール』は「氷菓」に続く「古典部シリーズ」の第2作です。奉太郎達古典部が文化祭の自主制作の映画の脚本に関する事を解いて行くのですが、奉太郎が失敗して挫折を味わいます。後味のあまり良く無い作品と言えるかも知れませんね」
「挫折ですか……またしてもほろ苦い結末なんですね」
栞子さんは改めて俺の隣に椅子を持って来て座ると
「えるさんはこのぐらいパーソナルスペースが近いのでしょうね」
そう言って俺との距離を詰めて来た。栞子さんは俺の右側。つまり杖をはめていない方の腕が俺の右腕に触れている。柔らかな体温を感じる近さだった。
「奉太郎がアニメでも目を白黒させる訳ですね」
「こ の作品は冒頭から普通の入り方とは違っています。そこがこの話の肝要な処です。最後に意味を持ってきます。アニメでも同じになるかは分かりませんが、小説 ならではの書き方だと思います。そして奉太郎は新しい登城人物によって、踊らされてしまうのです……今日はそれくらいにしましょう。全部話してしまうと読 む楽しみが無くなりますからね」
栞子さんはそこまで言うと立ち上がろうとしてバランスを崩して、倒れそうになった処を俺が抱きかかえて支えた。
「すいません。ありがとうございます」
栞子さんが他人行儀な口を利いたと思ったら、母屋に通じる廊下に栞子さんの妹の文香が立っていて
「仲が良いのは嬉しいけど、もう夕飯だよ。五浦さんも一緒に食べて行って!」
笑いながらそう言って母屋に帰ろうとしてこちらに向き直り
「正直言うとね。母屋とか店に五浦さんが居てくれると、安心するんだ」
それだけを言い残すと文香は母屋に消えて行った。
「あの子、大輔くんを兄代わりに思い始めているのかも知れないです。私もその気持は判ります」
どうやら、いつの間にか俺はこの篠川家である程度の地位を占める様になったのだと感じたのだった。
結局、アニメ版の「愚者のエンドロール」の第1回が始まるまでには文庫を読み終える事が出来なかった。
アニメ版は若干の設定の違いはあるが、おおよそは同じだった。冒頭のチャットが携帯でのメールのやりとりに変わっていたが、その後のチャットは同じだった。
俺は目眩を抑えながら、二回目の放映前には読み終えた。
「随分頑張りましたね。段々良くなってる様な気がします」
栞子さんは俺が以前よりも本が読める様になったと思ってるらしかった。まあ、読める様になったのは事実だが、目眩は治っていない……
「如何でしたか? 大輔さんの感想を聴きたいです。今日終わったら聴かせてくれますか?」
栞子さんは、スクータを降りた俺を表で待っていて、朝の挨拶の代わりにそう言って微笑んでいた。
どうやら、この調子で俺は家に居る時間よりも篠川家に居る時間が長くなりそうだ。
……だが、それも悪く無いと俺は思い始めていた。