土曜日の昼前のことだった。姉貴がリビングで文庫本を読んでる俺に
「あんた、今日暇だよね。後でお使いに行って来てくれない?」
そう言って来た。俺は文庫本から目を離すと
「お使い? めんどくさい事ならお断りだ」
そう言い返すと姉貴は
「あっ、そう、あんたにも関係する事なんだけどね」
そう言って俺を脅かす。
「大した事じゃ無いのよ。どっかのスーパーでこの紙に書いてあるものを買って来て欲しいのよ。それだけ」
そう言って俺に小さなバッグを手渡した。中を見てみると、千円札が一枚と紙切れが入っている。その紙切れを見てみると、卵1パック、葱1束、味醂、と三つの品物が書いてあった。
「こんなのなら、姉貴がバイトの帰り買えば良いじゃないか」
そう言うと姉貴は
「普段ならそうするわよ。それが出来なくなったからあんたに頼んでいるんじゃ無い」
なるほど、最もだ。
「バイトでね、遅番の子が今日は病気で来れないって連絡があってね。私が代わりにする事になったのよ。バイトが終わってだとスーパーみんな終わってるでしょう。だからあんたに頼んだの。分かった!?」
「ああ、分かったよ。で、どこで買っても良いんだな?」
「うん、それは任せる。あ、おつりはちゃんと頂戴ね。ネコババは駄目だからね」
はいはい、そんな事はしませんよと。
姉貴は俺に言いたい事を言うとさっさとバイトに行ってしまった。俺はそれから文庫本の切りの良い箇所まで読んで、買い物に行く支度を始めた。最もTシャツの上にポロシャツを着るだけだが……
初めは一番近くのスーパーに行くつもりだったが、そう言えば今朝の新聞に折り込みチラシが入っていて、街道沿いに出来た新しいスーパーが今日と明日がセールだったと思い出した。家庭の主婦はこういう時1円でも安い方に行くと聞いた事がある。俺もそうしてみるかなと、その時思ったのだ。
自転車で街道に出て、そのスーパーを目指す。そう言えば姉貴のバイト先もこの先だったと思い出した。十分程自転車を走らせると、真新しい建物が見えて来た。この辺ではかなり大きな部類に入るスーパーだ。
自転車置き場に自転車を置いて、中に入る。思った以上に中は広々としていて、ほとんどの人は籠をカートに乗せて押して歩いている。つまりそれだけ広いのだ。
俺もカートに籠を乗せて押して行くと目立った場所に卵が山積みにされていて「本日の目玉商品!おひとり様一個」と書かれていた。
そうか、姉貴はもしかしたらこれを狙っていたのかも知れないと思い、俺も一つを手にして籠に入れた。さて、次は葱の番かと思い野菜売場を探してキョロキョロしていると、不意に後ろから声を掛けられた。
「こんにちは折木さん。お買い物ですか?」
振り返ると我が古典部の部長の千反田だった。
「珍しい場所で会うものだな」
俺は千反田にそう言い返した。千反田は、白のワンピースに夏物の水色のカーディガンをはおり、鍔の広い帽子を被っていた。どこから見ても夏のお嬢さんと言った風情だ。最も千反田は本当のお嬢さんなのだが……
「折木さんもスーパー等で買い物する事があるのですね」
「姉貴にな頼まれたんだ。自分で進んでは来ないよ」
千反田は俺の買い物のカートの中をのぞき込み
「折木さんも今日の目玉の卵をお買いになったのですね。わたしもあまり安いので買って仕舞いました」
そう言って笑っている。
「ああ、確かに安いな。俺も普段はここまでは来ないんだが、今朝チラシが入っていたのでな……千反田も卵を買いに来たのか?」
俺が訪ねると千反田は
「違いますよ。この近所の方に夏のご挨拶をしに来たのです。その帰りに新しく出来たこのスーパーに涼みがてら寄ってみたのです。そのお陰で折木さんにお会いする事が出来ました」
千反田は俺とここで会った事がそんなに嬉しいのだろうか? 満面の笑みを浮かべている。しかし、学校の外で会う千反田がこれほど眩しいとは思わなかった。
「まだ、折木さんはお買い物をするのでしょう? 出来たらわたしもご一緒して宜しいでしょうか?」
もとより俺に異存など有るわけも無く俺は了承した。
「次は何をお買いになるのですか?」
そう訊かれたので姉貴の書いたメモを見せた。
「ええと次は葱ですね。それから味醂ですか?」
メモを熱心に見ていた千反田は
「折木さんお姉さんは何かおっしゃっていましたか?」
「いや、特別には何も言って無かったが……それが買い物に関係あるのか?」
俺が不思議そうに尋ねると千反田は
「はい、わたしが考えるにですね。お姉さんはきっとこの品物を何かの料理に使う積りだと思うのです。それが材料が足らないので、きっとここに書いて買ってこようと思ったのだと思います」
「千反田、それぐらいは俺でも解るぞ」
「あ、はいそうですね。問題は何を作る積りだったのか、と言う処だと思います。折木さんは心当たりがありますか?」
「別に無いが……なあ、ここに書いてある通りにネギと味醂を買って帰れば良いのじゃ無いか?」
俺がもっともだと言う感じて返答すると千反田は
「その葱が問題です。どの葱を買えば良いかです」
「千反田、葱なんてのは普通は上が青くて下が白いやつを買うだろう?他にあるのか?」
「あります。全身青い九条ねぎとか同じ様な博多万能ネギとか色々と種類があるんですよ」
「そうか、それは知らなかった。でも千反田、姉貴はそういう知識に乏しい俺に只葱とだけ書いて渡したのだ。ここは普通の葱で良いと思うぞ」
そう俺が言うと千反田は笑いながら俺に尋ねる
「折木さんの家では麺類の薬味にはどの葱を使いますか?」
「ああ、普通の葱だが……」
「じゃあ、それなら普通の葱で大丈夫ですね」
「どういう事だ千反田?」
俺がそう訊くと千反田は嬉しそうに
「わたしが思うにですね。お姉さんはきっと明日のお昼あたりに、そうめんか冷麦を食べようとしているのだと思うのです。そこで、薬味の葱や錦糸玉子にする卵等を買って来なさいとおっしゃったのだと思うのです」
そうか、そうめんと言えば姉貴が「お中元で貰ったそうめん食べないとね」と話していた事を思い出した。
「どうやら正解だったみたいですね。なら問題は味醂ですよ」
「なんだって、味醂が問題なのか?」
「はい、きっと味醂はそうめんのお汁にすると思うのです。ならばちゃんとしたのを買わないと……」
「なあ千反田、味醂にはいい加減な品物があるのか?」
「そうですね。見て戴ければ解ると思うのです」
そう言って葱を買った後、俺を味醂の売り場に連れて行った。
棚には色々な味醂が並んでいる。大きさしか違いが判らない俺に千反田は
「ほら、これを見てください」
そう言ってある品物を手に取って俺に見せた。
近い!こいつは人との距離の間隔が独特だったのを思い出した。
「ほらこれ、読んでみてください」
千反田の指さした箇所を読んでみると
「味醂風調味料……うん……て事は味醂とは違うのか?」
「そうなんです。味醂風であって味醂では無いのです。こちらも見てください」
そう言ってもう一つの品物の裏に指をさす。そこには
「なんだって、塩分1%……塩分? 塩からいのか?」
「そうなんです。これも味醂ではありません」
「なんでこんな品物があるんだ?」
俺の疑問に千反田は
「味醂はお酒の一種です。ですからアルコール分を含みます。という事は酒税が掛かっているのです。それを避ける為にアルコールが無い味醂風調味料を拵えたり、塩分を加えて酒税が掛からない様にした品物を作りだしたのです。知らずに使ったら味が可笑しくなります」
そうか、千反田はきっと料理上手なのだろう、そのうちにおにぎりだけでは無く、千反田の手料理を食べてみたいと俺は思った。きっと楽しく素晴らしい様な気がしたのだ。
千反田の進めるメーカーの品物を買って会計を済ませると姉貴のよこした千円は殆んど残らなかった。まあ、きっと計算していたのだろう。俺は千反田に礼を言った。
□
思いがけなく入ったスーパーで折木さんを見つけました。カートを押して卵を買っています。きっとこの特売目当てでやってきたのでしょうか?
声を掛けると大変驚かれていました。お姉さんに頼まれての買い物だそうです。買い物に慣れない折木さんに色々とアドバイスします。
何時も学校で折木さんの見事な推理を拝聴していますが、今日はわたしが色々と折木さんに説明をします。何時もと逆なので新鮮です。
そこで、折木さんのお姉さんが作りたいと思っている料理が浮かびました。わたしは、それを頭に思い描きながら、折木さんにアドバイスします。
でもその時わたしの頭に描いていたのは、わたしが折木さんの家で料理をつくる姿でした。何故その様な事を思ってしまったのか自分でも判りません。折木さんの為に料理を楽しそうに作る自分が居るのです。
買い物をしたらお別れする積りでしたが、折木さんが
「アドバイスのお礼にお茶でも飲んで行かないか、おごるからさ」
そう言ってくださいましたので、それに従います。実は私も名残惜しかったのです。
何故でしょうか? 学生服姿で無い折木さんが新鮮だからでしょうか?
それとも、伯父の件を解決してくれた折木さんに、わたしは特別な想いを持ってしまったのでしょうか? それが彼の為に料理を作る自分の姿を投影してしまったのでしょうか?
今のわたしには答えは出せません。只、折木さんと今すぐにはお別れしたく無いと思ってしまったのです。
わたしの中に不思議な感情が湧き上がるのを自覚します。何かに似てると思っていたら、あの喫茶店で折木さんに伯父の件を頼む前の心境と似ている事が判りました。
スーパーから程近い喫茶店で二人で楽しく話をしながらお茶を戴きます。わたしがあまり折木さんを見つめているので
「千反田、俺の顔に何か付いているのか?」
と云われて仕舞いました。わたしは
「いいえ、だって私服姿の折木さんは珍しいですから」
と半分誤魔化しました。
楽しい時間は直ぐに過ぎて仕舞います。表に出ると折木さんは
「じゃあ千反田、今日は有難うな! また月曜に学校でな」
そう言って自転車に乗ります。
「はい、また月曜に、それでは……」
そう言って頭を少し下げます。折木さんがその仕草をじっと見ていたので、ちょっとドキっとしました。
やがて手をひらひらさせて折木さんは去って行きました。わたしは、その姿が見えなくなる迄何時までも何時までも見ていました。
折木さん……本当はもう少しお話していたかったです。一緒に折木さんの家に行って料理を作ってあげたかったのです。
でもどうしてでしょう?何故、今日はこんな感情が湧くのでしょう?
わたしは半分判り掛けている自分の心を抑える為に胸に手を当てて想いを馳せていました。
わたしが自分の本当の想いに気がつくのはもう少し後の事です……
了