四月になった。新年度だ。俺達は無事に三年生へと進級した。最も里志の奴は大分危なかったみたいだが、伊原が尻を叩いて何とか進級出来たのだった。
そして、桜の便りともう一つ、神山には大事なものがある。「春の山王祭」だ。
一口に「神山祭」と言われるが、春の「山王祭」と秋の「八幡祭」と別れている。「山王祭」は荒楠神社の祭りに対して「八幡祭」は八幡神社の祭礼である。
前者は四月十四~十五と言う日程に対して後者は十月九~十と毎年決まっている。それぞれが綺羅びやかに飾られた屋台が出るのだ。屋台というのは所謂「山車」の事だ。
それぞれの祭りがそれぞれの屋台を出すので同じ屋台が出る事は無い。だからこの屋台を見ようと全国から観光客が集まるのだ。
俺は子供の頃から見慣れていたし、毎年大勢の観光客が市内を闊歩するので、近年は出かけないで家で大人しくしていたのだ。
だが高校に入り、千反田と知り合いになると、彼女の親友の十文字が荒楠神社の娘という事もあり、まるきり無視という訳にも行かなくなった。
「折木さん今度の山王祭、夜祭を一緒に見にいきませんか?」
地学講義室で文庫本を読みふけっていた俺に千反田が不意に声を掛けた。
「十四日の夜祭か、そうだな、たまには見物に出かけるか、そういえば十文字はさぞ大変だろうな? 手伝いに行かなくてもいいのか?」
俺の座っている机の前に立った千反田は柔らかな笑みを浮かべていた。長い髪が春の風に揺れている。
「はい、大事なお祭ですから、わたしが当日お手伝いすることは無いんです。前日の土日に少しお手伝いはしますけれども」
そうか、案外そう言うものなのかも知れないと俺は思った。まあ、親は寄付を取られるのだろうけど……
「判った。で、どうする? 祭りの日は神高は休みでも無ければ、短縮授業にもならないぞ」
俺が、日程のことを言うと千反田は、少し赤い顔をしながら
「そ れなんです。夜祭の始まる六時には遅くとも折木さんと落ち合っていないとならないので、良かったら、折木さんのお家で着替えさせて戴け無いでしょうか? 朝登校する時に折木さんのお家に寄って着替えの荷物を置かせて戴き、一緒に登校して、帰りに寄らせて戴いて着替えて一緒に夜祭を見に行く。というのはどう でしょうか?」
なんて事は無い、千反田はちゃんと計画していたのだ。この分ならきっと姉貴にも連絡しているのだろう。
「ああ、それで良いよ。そうしよう」
俺が殆んど「事後承諾」の様な感じで俺と千反田は一緒に山王祭の夜祭を見物に行く事が決まった。
十四日の朝、千反田は俺が起きる頃にもうやって来て
「交通規制があるので早く来ちゃいました。ご迷惑でしたか?」
寝ぼけ眼の俺に朝からテンションの高い様子を魅せつける。
「いいのよ! えるちゃんなら何時でも歓迎だからね」
姉貴が珍しく早起きしている。こっちも朝からテンションが高い。千反田の持ってきた荷物を見るとギョッとした。
「何か、凄いな、そんなにあるのか……」
俺が大きな荷物を凝視すると千反田は
「恥ずかしいから余り見ないでください」
そう言って赤い顔をした。
千反田は自転車を我が家に置くと、一緒に俺と歩いて通学した。途中で伊原と里志の二人連れと出会った。やはり今夜二人で一緒に出かけるらしい。
「ホータロー、悪いけど祭りの夜なんだから一緒には出来ないよ。別々に行動しようね」
里志が意味深な言葉を言うが、きっと付き合い出してから春の祭りを一緒に見に行くのは始めてだから想いも違うのだろうと理解した。
「ああ、判ったよ。俺達も今夜は一緒に見に行くんだ」
俺がその事を言うと里志と伊原は目を丸くして、それぞれ
「ホータロー、ちゃんと千反田さんをリードするんだよ」
「折木、ちーちゃんと一緒に山王祭の夜祭を見物出来る幸せをちゃんと考えるのよ」
等と、相変わらず言いたい事を言う。
「ああ、大丈夫だ。任せておけ」
そう言って別れた。
午後三時過ぎにHRが終わると千反田が俺のクラスに顔を出した。教室の後ろの出入口に立っていると、殆んどの男子が千反田に見とれていた。そして、千反田が俺と一緒に帰るのだと判ると何とも言えない顔をするのだ。
「おう、じゃあ帰ろうか」
そう言って二人で家路に着く。幸い今日はいい天気で、きっと昼の巡航も行われたに違い無いと思う。
今夜の夜祭は、午後六時に上川原町を出発、中橋を渡り神明町を東進し、上一之町を北進して、安川通りを西進し鍛冶橋を渡って本町を南進し、移動順道場(中橋公園)にて曳き別れる事になっている。
毎年同じだが、今年の情報は千反田が俺に教えてくれたのだ。
家に帰ると姉貴が待っていて、さっさと千反田を取り込んで
「えるちゃんは着替えるんだから、覗いたら駄目だからね」
などと怖い事を言う
「ああ、判ったよ俺も着替えるから」
そう言い残して二階の自分の部屋に入り着替え始める。
着替えてリビングに行き、コーヒーを入れて飲んでいると姉貴の部屋から女二人の歓声が聴こえるが覗く訳にも行かない。
一時間近くも経った頃だろうか「おまたせ!」という姉貴の声で二人が部屋から出て来た。俺はその姿を見た時に思わず小さな声を出してしまった。千反田は髪をアップに纏め上げ、薄化粧をして、桜の柄の着物を着ていた。
正直、綺麗だと想った。見ていたら何だか胸が一杯になってしまった。
「どうですか折木さん」
千反田にそう言われたのだが俺は中々声を出す事が出来なくて
「あ、ああ綺麗だ。良く似合ってるよ」
それだけ言うのがやっとだった。
「何、その情け無い褒め言葉は、わたしの弟ならもっと気の効いた言葉を言いなさいよ。ゴメンネえるちゃん、こんな弟で」
「いえ、いいんです。ちゃんと折木さんが見てくれたので、わたし、それだけで満足です」
千反田にそう言われて、俺は着物が振り袖である事に気がついた。確か以前大学に入るまでは駄目だと言われていたと思い出したのだが……
「振り袖なんだな……初めて見たよ」
俺の言葉に千反田は耳まで赤くして
「後で、訳を言います。その、二人だけの時間に……」
そう言って俺の手を軽く握り
「さあ、行きましょう。良い場所を確保しないと」
「そうよ、早く行きなさい」
姉貴の言葉に送られて、俺と千反田は街に繰り出した。
街は既に大勢の人々で混雑をしているが、通り過ぎる人の殆んどが千反田の姿を見て振り返る。それだけ特に目立っていた。
大勢の観光客に混じりながらも中橋のあたりに何とか場所を確保出来た。千反田の知り合いが確保しておいてくれたそうだ。ここでも旧家の顔が利く。
六時になり巡航が始まった。夜の街は幾つもの赤い提灯に照らされて、幻想的な雰囲気を漂わせている。
その中を最初の屋台「神楽台」がやって来た。百個もの提灯を灯した屋台は綺羅びやかで、その姿を撮影しようと、一斉にフラッシュが焚かれる。俺は千反田の手を強く握って離れ離れにならない様に気をつける。
中橋を渡る屋台は橋の袂の咲き始めた桜と合いまって、とても幻想的だ。そして俺の隣には薄化粧をした振り袖の千反田がいる。夢の様な光景かと想う……
その千反田が俺の耳元に小声で
「お祭りの夜だけは女性が男性に積極的になっても良いとされています。だから今日わたし、折木さんに見て貰いたくて母に無理を言って振り袖を出して貰いました。どうしても春の山王祭の夜祭にこの姿を折木さんに見て欲しかったのです」
その気持ちは、痛いほど俺に伝わった。俺はなんて幸せ者かと想う。
「千反田、本当に綺麗だよ。俺にはお前の姿の方が屋台よりも数倍綺羅びやかに見えたよ」
俺は千反田の目を見つめながらやはり耳元で囁くと千反田は俺に体を預けて来た。それをしっかりと受け止める。
やがて次から次へと来る屋台を俺達は何時迄も眺めていた。
今夜は祭りの夜だ。千反田を送って行くのも遅くなっても良いだろう……
俺は振り袖の持つ意味を考えていた。
了