第8話 命の価値 ~くちなしの間~

   僕が予備校から帰って来ると婆ちゃんは
「お前明日も予備校行くのかい?」
そう訊いてきたので僕は一応もっともらしく
「うん、行くつもりだけど……なんかあるの?」
と訊いてみた処、明日友達と歌舞伎を見に行くのだそうだ。
ついては、留守番件フロントの仕事をして欲しいという事で
「バイト代は5千円だすから」という婆ちゃんの申し出に僕は即決で快諾した。
予備校なんて毎日行かなくても良いのだ。
僕にとっては5千円の方が遥かに大事で、貧乏な予備校生には有難い話である。
婆ちゃんの見に行くのは夜の部なので、夕方に華連荘を出て行った。

「しんちゃ~ん。御飯たべましょう!」
茜さんが台所からロビーに夕飯のおかずを並べて御飯を盛り、僕を手招きして呼ぶ。
茜さんはもうひと月以上経っていて、アポートの改装も終わったのに、未だに出て行かない。
「だって、ここに居ると暖かいんだもん」
それが茜さんの理由だ。
まあ、いいんだけどね。それに何故か婆ちゃんも部屋代を半額にしたままなのだ。
理由は訊いてないけど、急に変えるのも面倒臭いのかも知れない。
「今日はハンバーグよ。好きでしょう!ウチの人も好きなのよ」
そう言って4人のハンバーグを載せたそれぞれのお皿をテーブルに並べる。
お皿にはマッシュポテトと人参が綺麗に飾り切りされて載っている。
こういうのを見ると茜さんは家庭に憧れているのかも知れない。
2階から陣さんも降りて来て3人で夕食を採る。

食べながらなんとなく窓から外を見ると、この花蓮荘の斜め前に電話ボックスがあるのだが、
そこに誰か入った様だった。
今日は昼過ぎからしとしと雨が振り出し、この時間でも止んでいない。
傘が必要か要らないか迷う程度の雨が降り続いている。

ふと視界の隅にオレンジ色の光が目に入る。
「なんだろう」と思いその方向を見ると、電話ボックスからオレンジ色の炎が立ち上がった。
「ボン」という軽い音もしたかも知れない。
「あ、火、電話ボックスで火だ!」
僕は思わず声に出して叫ぶと、陣さんが窓から半身を乗り出して確認している。
茜さんは台所へ行くとバケツに水を汲んで、玄関から急いで電話ボックスへ駆けて行く。
僕も残りのバケツに水を汲んで出て行こうとすると陣さんが
「俺がそれをやるから、電話しろ!”消防と110番に!」
僕は云われた通りに受話器を取るとダイヤルを廻す。
窓越しに見える限りでは、どうやら人が焼身自殺を謀ったようだ。
陣さんが火を消して、人を表に出している。雨に当ててる様だ。
火傷しているだろうと思う。
僕はもうすっかり慣れた調子で電話をして、今度は警察に電話をする。
そして「もしかしたら焼身自殺かも知れない」旨を伝える。
そして僕も電話ボックスへ急いだ。

そいつは男だった。陣さんが
「こいつ頭から石油かぶりやがって、火を付けやがった。そしたら髪の毛が燃えて
服に火が移って熱いもんだから服を脱ぎやがった」
陣さんが早口で説明してくれる。
「止めるくらいならやんなきゃ良かったんだ」
陣さんは茜さんが汲んで来たバケツの水をその男にかけてやる。
男は電話ボックスの外で小雨に打たれながら、膝小僧を抱えて体育座りをしている。
頭はチリチリに焼けて、顔も真っ黒で、人相も判らない。
「かずちゃん、かずちゃん。酷いよ、酷いよ」とぶつぶつ言っている。
陣さんが「こいつ女に振られての自殺か?」
そう言って男の顔を覗き込む。

「きみ、大丈夫?痛く無い?」
茜さんが男に訊くと「はい、少し痛いです」と言って腕を差し出すと、すでに腕は水ぶくれで腫れていた。
「うわあ~これはお医者さんで無いと駄目だわ」
茜さんはそう言って持って来た氷を当ててやるが焼け石に水だった。
気がつくと、女の子が目の前に立っていた。

僕はその顔を見て、先ほど「くちなしの間」に大学生らしき男と入った娘だと思った。
「お客さんの知り合いですか?」
そう僕が訊くと、その娘は引きつった顔で
「知り合いなんかじゃ無いわよ。こんな奴。だから私は迷惑だって何回言えば解るの!」
そう吐き捨てる様に言った。
そう云われてその男は
「だってかずちゃん、急に冷たくなるんだもん。俺、一度でいいから話聞いて欲しくて……」
そう哀願する様に言うと娘は
「だから、私は話なんか無いの!あんたが貯金無くなったら関係が終わるって前から言っていたでしょう」
「だから、だから俺は最後にせめてお礼が言いたくて……」
「だからぁ、それも迷惑なんだよね」
そう言って、男を蹴ろうとした時だった
「ちょっと待ちなよ。あんたおんなじ女として最低だね。男を騙して金を巻き上げるのは構わないけど。騙すなら最後まで気持ち良く騙してやんなよ。それも出来ない小娘なんかこの人に何かする資格なんか無いね」
茜さんが怒りの表情でその娘に言うと流石に貫禄の違いとでも言うのだろうか黙ってしまって花蓮荘に帰って行った。
救急車の音が直ぐ傍まで聞こえてきた。
「あんた、あんな女の為に命を粗末にする事は無いよ。でも命を捨てるくらいなら、何でも出来たと思うけどね……」
茜さんがそう言うと、男は泣きながら礼を言っていた。
救急車が到着して、陣さんや茜さん、それに僕が事件の証言をした。
隊員が「火傷はちょっと酷いですが面積的には大丈夫ですので、命に別状は無いでしょう」
そう言って応急手当てをして貰って救急車に乗り込んだ。

野次馬もかなり居たが、救急車が去って、パトカーもいなくなると次第に居なくなって行った。
その頃だ、婆ちゃんが青い顔をして帰って来た
「大丈夫かい? 駅降りたらさ知り合いが『花蓮荘が火事で孫が火傷で大変で女の子も大変な事になってる』って言うからさ、もう久しぶりに走ってしまったよ」
僕は、今迄の経緯をちゃんと話して婆ちゃんを安心させた。
さすが茜さんの事まで心配するとは婆ちゃんは人が出来ていると思った次第だ。


「御飯食べ損ねたね。皆揃ったからもう一度食べようよ」
茜さんの提案で今度は4人で座ってテーブルに着いた。
「やっぱり4人揃うと味が違うね」
そう言って嬉しそうだった。

それから2階の「くちなしの間」の二人は帰る時も一言も口を利かなかった。
それを見ながら婆ちゃんは
「ほっときな!いずれああ言うのには報いが来るんだよ」
そう言ったのが印象的だった……

第7話 自殺志願 ~菊の間~

  その晩、日付の変わる少し前に訪れた30代と思われる女の人は茜さん曰く
「ちょっと変」と言う事なので僕は1時間間隔で菊の間の前を様子を見て歩いていた。
何か問題でも起こされたら大変だからだ。
警察なんかに突っ込まれて、根掘り葉掘り訊かれたら困るからだ。
2時を廻った頃だろうか、茜さんが降りて来て
「なんか生臭いのよね」と言うではないか。
僕は「生臭いって魚臭いの?」と今から思えばトンチンカンな事を聴いていた。
陣さんも降りて来て
「坊主、あの部屋の女じゃ無いのか?」
と言う。陣さんがこんな事言うのは珍しいので僕は意を決して菊の間に行ってみた。
先ほど見廻った時は何でも無かったのだが……

部屋の前迄来ると確かに変な匂いがする。
確かに生臭いのだが、魚等ではない。
何の匂いだろうと思っていると、何やら微かに声が聞こえる。
耳を済ませて聴いてみると
「……すいません……ごめんなさい……」と聞こえる。
僕はとっさに閃いて、部屋の襖を開けようとしたが、内側から鍵が掛かっているので、二枚の襖ごと敷居から外して一気に取り去った。
そして僕が見た光景とは、何と風呂場から持って来たであろう洗面器に右腕を晒し
左手でナイフを使って、手首を切って血を貯めている光景だった。
「何してるんですか!」
そう大声を出して、ナイフを取り上げる。
そして、大声で階下の陣さんと茜さんに「救急車呼んで!自殺!リストカットだ!」と叫んだ。

それを聴いて陣さんが上がって来て、自分の部屋(茜さんの部屋だね)から包帯を持って来た。
そして手首を巻くと言うより締め上げる感じで止血する。
もう洗面器一杯になろうとした血は鈍く光っている。
「人の血って沢山あるとこうなるのか」と心に思ってしまった。
茜さんが電話してくれたのだろう、救急車のサイレンの音が聴こえ始めた。
僕はその音が中々近づか無い感じがしてしまったが、実際はそうでも無かったのだろう。

やがて、救急車と消防車が到着して救急隊員が菊の間に上がって行く。
僕は救急車が花蓮荘に来るのは2回めなので前より若干落ち着いていた。
陣さんの止血が良かったみたいで命は大丈夫だとの事だったが、
「もしかしたら血液を輸血しないとならなくなるかも知れません」
そう言うので、僕は「僕で良ければ構いませんが何型ですか?」
と聞くと「患者さんに聞いたらO型だそうです」と言う。
僕もO型だと言うと陣さんは「俺はAだから駄目だな」
茜さんは「私もOよ」と言う。
確か婆ちゃんも同じだったと思い出した。
そのうちにパトカーが来て色々と事情を聴いて来るので、僕は見た事をそのまま警察に話した。
僕はもう19歳なので、別にこの時間労働していても構わ無いのだそうだ。
それに家業を手伝っているのは労働に当たらないそうだ。
婆ちゃんも起きて来て、責任者なので色々と応対に当たっている。
それやこれやで夜が白々と明けて来てしまった。

自殺未遂の人は警察が付き添い病院に送られた。
僕は部屋にはいると洗面器に貯まった血を流しに流して、綺麗に洗った。
正直もう使いたくは無い。
婆ちゃんも買い換えると思う。
婆ちゃんが「お前、ご苦労だけどもう一度警察に訊かれるかも知れないから覚悟しておくんだね」
そう忠告してくれる。
僕は、取り敢えずそんな事はどうでも良くなっていて、お腹が空いているのに関わらず
食欲が湧かないのが変だと思っていた。

それから暫くは何だかんだと落ち着か無い日が続いていた。
僕も毎日は予備校には通えなかった。
最もこの頃になると、予備校も春の半分も生徒は来ておらず。
人気の無い講師の授業はそれは悲惨だった。
僕は予備校で知り合った友達には家の事は何も話さなかった。
僕は冗談で「茜さんも僕も同じ血液型だったよ。最もOも大勢居るからね。そうだ婆ちゃんも同じだよね?」
そう訊くと婆ちゃんは
「お前がOならあたしだって同じだろう! 当たり前じゃ無いか」
何故かつまらなそうに言う婆ちゃんだった。

それから暫くして判った事は、あの自殺未遂の人は亭主に逃げられてから精神的に可笑しくなり、あちこちで自殺のまね事をしている常習者だったそうだ。
只、今回はかなり本気だったと見えて、かなりの出血にも関わらず、自分からは騒がなかったので、一応本当の自殺未遂として扱われたそうだ。
全く迷惑千万なのでこういう事はやりたければ、自分の家でやって欲しいものだと思う。

同じ血液型だと判った茜さんは、増々婆ちゃんと親しさを増した様だ。
僕もいよいよ志望校を決めないと行けなくなって来た。
今度は合格120%の所を選ぶ積りだ。
でも、茜さんと婆ちゃんやたら仲がいいような感じがする……気のせいかな……

第6話 同居人 ~カンナの間~

僕が婆ちゃんとフロントを交代して直ぐに茜さんが顔を出した。
「あ、いらっしゃい、いつもの部屋でいいですか?」
僕がそう訊くと茜さんは
「今日は違うのよ。おばさんにお願いがあって来たの」
それを聴いたのか婆ちゃんは自分の部屋からビールの大瓶とビヤタンを2個持って出て来て
「あたしに何の用だい?」
そう言って、茜さんをロビーに座らせビヤタンを置いてビールを並々と注ぐ。
白い泡が盛り上がり、旨そうな音を立てる。
「ま、取り敢えず飲もうや」
そう言ってグラスを合わせて飲み込む
茜さんも喉を鳴らしながら飲み込む。
「ああ、美味しい!」
本当に美味しそうにこの人は飲むと思う。
「で、なんだい、頼みって?」
そう云われて茜さんはちょっと言い難くそうに
「あのね、おばさん。わたしをひと月置いてくれないかな?」
「なんだい、それは。うちはアパートじゃ無いんだがね」
「うん、それは判っているんだけど、実はね私の入ってるアパートがね、改装と言うのかな、最近の言葉だとリ・ニューアルと言うのかな、なんか直すらしいんだよね」
そこまで言って茜さんはビールを口にして
「それで、その間だけ部屋を貸してくれないかな……なんて思って……」
婆ちゃんはビールを飲みながら聴いていたがビヤタンを置いて
「なら仕方ないけど、住めないのかい?」
「うん、その間ガスも電気も止めるんだって……だから……」
「じゃあ、角のカンナの間を使えばいいよ」
「本当!おばさん有難う!本当に恩に着るわ!」
「勘違いしたら困るよ何でもタダで貸す訳じゃ無いんだからね」
「もう、嫌だおばさん、当たり前じゃない。ちゃんと部屋代は払いますよ」
そう言って茜さんは来週からひと月この花蓮荘に住む事になった。
後から婆ちゃんに訊いた処部屋代は通常の半額にしてあげたそうだ
「だって、あの娘からお金を巻き上げる訳には行かないだろう」
それが婆ちゃんの理屈だった。

翌週から本当に茜さんは身の回りの荷物を持って引っ越して来た。
「必要な物は取りに帰れば良いから必要最低限の物だけにしたんだ」
茜さんはそう言って何やら嬉しそうにしている
「何がそんなに嬉しいの?」
僕は上機嫌の茜さんに訊いてみた
「当たり前じゃない。だっておばさんやしんちゃんと同じ屋根の下で暮らすのよ」
まあ、当たり前の事だと思うのだが、もしかして茜さんは本当は寂しがり屋なのかも知れないとその時思った。

でも、身近に居ると、色々な事が分かって来る。
以外と綺麗好きで、部屋の掃除なんかも熱心にやっているそうだ。
それに、これは当たり前だが、料理が得意で台所を借りては料理を作り、僕やばあちゃんと一緒に食べるのが多くなった。
「こうしてると、まるで家族みたいね」
なんて言って喜んでる。
夜遅くだとそこに陣さんも一緒に加わるのだ。

花連荘には相変わらず変わった人がやって来る。
先ほど来た人は女の人で30代ぐらいだろうか?
一人で来て、僕が「後からお連れさんが来ますか?」
と問うと
「いいえ、私だけです。一人では駄目ですか?」
と訊くので僕は
「いいえ、料金さえ払ってくれたら構いません」と言うと安心したように思えた。
この頃の連れ込みはおひとり様お断り、という所がほとんどだったのだ。
だから、一人でも利用できるウチなんかはその面でもお客の利用があったのだ。

女の人を案内して降りてくると、茜さんがフロントに座っていた。
「店番もしてくれるの?」
と冗談を言うと茜さんは
「どこに通したの、今の人?」と真剣に訊いて来るので僕は「菊の間だよ」と答える。
「あのね、おばさんには言わなくてもいいけど、今の人なんかヤバい感じがする」
茜さんはそう言って2階を見つめるのだ。
僕は茜さんに「何がヤバいの?」と訊いてしまう。
そんな変な感じはしなかったからだ。
「なんかね、変に暗かったでしょう。思い詰めてる感じと言うのかな。なんかね」
茜さんも若いけど水商売の人だ。人を見る目は持っていると思う。
「じゃあ、それとなく部屋の前を見回ってみる事にするよ」
「うん、それが良いと思う。じゃあわたしは帰るからね」
「ああ、おやすみなさい」
「おやすみ、しんちゃん」
そう言って茜さんは部屋に帰って行った。

事件はそのあと起こった……

第5話 命の火 ~おおるりの間~

   その日、予備校から帰るとフロントの前のロビーで陣さんと婆ちゃんが何か相談していた。
「じゃあ、兎に角ここに訊いて見てご覧。あたしの名前出しても構わないって言うか名前出せば良いと思うよ」
「そうか……済まない婆さん。恩に着るよ」
そう言って陣さんは封筒を懐から出して置いて行こうとすると婆ちゃんは
「止しなよ。こんなものは要らないよ。そんな余裕があるならあの娘に服の1着でも買ってあげな」
そう言われて陣さんは
「本当に恩に着るぜ」
そう言って振り返り僕に気がつくと
「おう坊主、また婆さんに世話になっちまったよ」
そう言って僕に何かを握らせた。
見ると千円札が皺になって手の平に収まっていた。
「あ、陣さん。有難う!」
僕の声が聞こえたかどうか判らないが陣さんは片手を上げて去って行った。

「陣さんどうしたの?」
僕は婆ちゃんに訊いてみた。
婆ちゃんは煙草をゆっくりと吹かすと溜息をついて
「陣の組織の娘がね。客の子が出来ちまったそうなんだ。それで何処かいい医者はいないか? と言うんでね。幸子の所を紹介したんだ」
それで大体の処は判った。
婆ちゃんの言う幸子と言うのは。佐藤幸子と言う婦人科のお医者さんで、佐藤病院と言う産科、婦人科、放射線科、内科、外科と言う病院の院長だ。
婦人の病気ならお産から乳がんまで何でも見てくれるし手術もする。
近所はおろか遠くまで聞こえた名医と言われている。
もつとも、院長の幸子先生の専門は産科と婦人科だ。
実は婆ちゃんの同級生で、子供の頃から親しくしている。
僕も佐藤病院で生まれたのだ。

「陣さんの組織じゃ知りあいの医者が居ないの?」
僕の問に婆ちゃんは
「ほら、優生保護法が出来てからは、結構うるさいらしいんだよね。それで余りいい顔しないんだそうだ。そこで何処かいい医者は居ないか?と訊かれて紹介したんだよ」
「そうだったんだ……」
僕はそれを訊いてこの前のあの人の事を思い出していた。
帰る時に鼻についた男の匂い……まさかあの人じゃ無いよなと思う。
「亭主持ちでね。亭主以外の子を生む訳には行かないからね」
確かに法外な金額を短時間で稼ぐにはリスクはつきものだけど……
「ああ、その子は陣の言う事だと、ウチを利用した事は無いらしいけどね」
それを聞いて僕は無責任にもほっとしたのだ……

深夜になりフロントを婆ちゃんと交代して業務に付く。
今夜は一部屋を除いてほぼ満室だそうだ。
皆さん頑張ってると言う事だね。
することがないのでラジオの深夜放送をイヤホンで聴いていると、1時を廻った頃に若いアベックがやって来た。
男は大学生ぐらいだろうか、女は若い。僕よりも若いと思った。
高校生か?とも思ったが、深夜来る客は前金で貰う事になっているので、先に勘定をして貰う。
そして唯一開いている「おおるりの間」に案内をする
「ごゆっくり」と言い残して下に降りて来る。
これで今夜は仕事は無くなった。バンザイだ!

およそ日常と言うものは退屈なものだと思っているが、それはこのような商売でも同じで特別に面白い事など滅多に無いのだ。
それから暫くしたある日の事、僕は早めに予備校から帰るとロビーに婆ちゃんと何と佐藤先生が座っていた。
「ああ、先生暫くぶりです」
僕はそう言って挨拶をする。
先生には小学校の頃まで良く診察して貰っていたのだ。
「ああ、しんちゃん!随分大きくなって……街で会っても解ら無いわね」
そう言って笑ってくれた。
「じゃあ、愛子、私は受け入れ先を探してみるから……」
そう言って佐藤先生は帰って行った。
ちなみに愛子とは婆ちゃんの本名で、身内意外は殆んど明らかにしていない。

「先生珍しいね。どうしたの?」
僕は気軽な気持ちで訊いていたのだが、問題は気軽な話では無かった様だ。
「お前、深夜に良く来る若いアベックって知ってるかい?」
「若いアベック? どのくらい?」
「そうさね。男が大学生ぐらいで、女は高校生かな」
僕は何時かの深夜に来た二人連れを思い出した。
「あのアベックだけどね、子供が出来たんだよ。それを知ったらね男が雲隠れしてしまってね」
子供が出来た?
「まあ、男の行方は陣が探してるからいいけどね。問題は出来た子供だよ」
「降ろすの?」
僕は率直に訊いたが、そうは行かない様だった。
「それがねもう四ヶ月過ぎていてね……親にバレてもう大騒ぎさ」
だが、それでなんで婆ちゃんの処に話が来るんだろう?
「その子がね。そいつだけだったら問題は無かったんだがね……」
うん?どういう事だ?
「陣の処で稼いでいたんだよ。まあ、本人は客とはゴム付きでやってたから違うって言ってるんだけどね」
「高校生売春!?いや~現実は進んでる。週刊誌なんかでは女子大生売春って騒いでるのに……」
「驚いているんじゃ無いよ!こっちはおお困りさ」
それで話が婆ちゃんの処に持ち込まれたのか……世の中進んでるな、僕は童貞だってのに……

「明日、幸子の所に両親ともども挨拶と相談に行く手はずだけどね」
「どうするんだろう……ねえ婆ちゃん……」
婆ちゃんは暫く煙草をふかしていたが、ポツリと
「幸子の事だから裏の道でやるしか無いだろうね」
「裏の道?」
「ああ、判りやすく言うと斡旋かな」
要するに生まれた子を子供に恵まれない夫婦に斡旋するのだ。
後年、岩手の産科医が同じ事をしていて発覚してマスコミを賑わせたが、この頃から実は行われていたのだ。

その後聞いた限りでは、高校生は病気と言う事で休学し、出産した。
男の子だったそうだが、その子は直ぐにその希望の夫婦に引き取られたそうだ。
条件としては、将来その子が出産するときは必ず佐藤病院を使う事。
これはちゃんとデーターを取っておかないと将来、生まれた子が女の子の場合偶然の力が働いて、もしかの場合があるからだ。
兄妹で恋愛になんてならないとも限らないからだ。
恐らく引き取った夫婦にもその事は言われているだろう。

このような事は滅多に無いのかも知れない
そのホンの氷山の一角に現れた事だが、事実はもっと深い事がきっと行われているのだろう。
ああ、それから、相手の大学生だが、陣さんの組織が見つけたそうだが、ガンとして認め無かったので……その後どうなったかは知らない……多分陣さんの組織が……いやいい加減な事はよそう。
女子高生も「もう未練は無い、私が馬鹿だった」と反省してまともになったそうだ。
いずれ、素知らぬ顔で嫁に行くのだろう……

僕は今夜も花蓮荘のフロントに立つ。

第4話 婆ちゃんの事情~えびの間

 僕の家は戦前はかなり大きな資産家だったそうだ。
この辺も今は家が建ち並んでいるが、その当時は辺り一面の田圃だったとか。
だから我が家は農家の傍ら土地を貸して生計を立てていたそうだ。
そこの一人娘として生まれたのが婆ちゃんで、その昔はなんとか小町とも呼ばれたそうだ。
10代の頃に婿を取らされ家を継がされたのだが、戦争で夫である爺ちゃんが亡くなり子供を残されて結構大変だったらしい。
戦後の農地改革であらかたの土地を手放してしまい、しかも女手で農家は出来ないと思った婆ちゃんは、この花連荘を建てて今の商売を始めたのだ。

「なんでこの商売をはじめたの」と訊いた事があるが
「日銭が入るだろう。だからさ。それに仕入れなんかも要らないしね」
以外と合理的な考えの婆ちゃんらしいと、そのときは思ったものだ。

戦後女手一人で3人の子供を育てた婆ちゃんだが、実はもう長い関係の恋人がいる。
この近くの川沿いにあるある会社の会長だ。
規模的には中企業とも言う存在で、そこの創業者で今は社長を息子さんに譲っている。
かなり早くに奥さんを病気で亡くなされて、それ以来独り身を貫いていたのだが、どういう訳か婆ちゃんと親しくなった。
婆ちゃんは今年還暦だが、会長さんは65くらいだろうか、精力的な感じの人だ。

会長さんは一月に2〜3回ほど花連荘にやって来る。婆ちゃんとの逢瀬を楽しみに来るのだ。
その日は婆ちゃんは朝から機嫌が良い。
まあ、婆ちゃんは孫の僕から見てもかなり若く見えるので、そういう年代の人からはかなり魅力的に見えるのだろうか……

「お前今度の土曜は用無いだろう? フロント代わりにやってくれないか」
そう言って婆ちゃんは僕にフロントの仕事を頼む。
アルバイト代はいつもの3倍だそうだ。
最も3千円だけどね。
その日は朝から婆ちゃんはソワソワしていて、会長さんの好きだというおつまみなんかを作っている。
チーズに板海苔を巻いたり、ガラスの器に氷を入れてそれにキューブ状のレーズンバターを乗せたりしている。
誠鮨から出前も取り寄せている。
「あの人はこれが好きだからね」と用意しているのはジョニ黒だ。
この頃は昔より大分安くはなっていたが、やはり高級ウイスキーの代表ではあった。

土曜の11時頃になると黒塗りの車が玄関に横付けされて、中から老年の紳士が降りて来た。
婆ちゃんはいそいそと、出迎えて一緒に2階に上がって行った。
僕はとりあえず、夕方まで留守番をする。

昼を少し過ぎた頃だろうか、常連さんのおじさんがやって来た。僕のいつも居る夜間はあまり来ないが、昼は結構利用してくれるおじさんだ。
この人は、いつも一人でやって来て、相手を呼ぶのだ。

ウチも商売だから、その筋の組織を幾つか知っている。
陣さんをはじめ、紹介してくれる人もかなり居るが、ウチは前にお客から「中間搾取をしているだろう」と言われて婆ちゃんは怒り、それ以来その商売の電話番号を教えるだけにしている。
「呼ぶなら勝手に呼んでちょうだい」と言うスタンスだ。
この常連のおじさんはウチに来る前に電話をして都合をつけてからやって来るのだ。

おじさんを「えびの間」に案内して下に降りて来ると間もなく、めがねを掛けた上品そうな30代の主婦らしき人がやって来た。手には買い物カゴを持っている。
とても知的な感じで、上品な人だと感じた。
買い物カゴを持っていなければ、中学の数学の教師かと思ったくらいだ。
その人がフロントで「あのう、先ほど一人で来られた方……」と言ったので僕はすぐに判り、「こちらです」と言って先ほどの「えびの間」に案内する。

このおじさんが贔屓なのは陣さんの組織がやっている所だそうだ。
おじさん曰く「品ぞろえが良い」のだそうだ。
そんな事を考えていたら、2階から誰か早足で降りて来る。
まさか婆ちゃんじゃ無いよな? と思っていると、さきほどのめがねの人だった。
フロントから見ても息が荒いのが判る。
おまけにブラウスのボタンがちゃんと掛かってないので、胸が開いていて、深い胸の谷間が覗いている。
「着やせするんだな」自然とそう思った。
その人は「はあ、はあ」と本当に息を乱して、髪もやや解れぎみで、僕の視線に気がついたのか、片手で胸元を押さえて「先に帰ります」と言って姿を消した。

その女の人が去った後には、化粧の匂いに女の匂い、それに男の精の匂いが混じった香りがしていた。
「ああまで急いで帰らなくても……」
そう僕なんかは思っていたのだが、小一時間もしたらおじさんが降りて来て精算した。
「ずいぶん急いで帰りましたね」
そう言うと、おじさんは
「いや〜急いで帰らないと、子供と旦那が家で待ってるからだろう」
とニヤニヤしながら言う
「やっぱり主婦だったのですか?」
「主婦って言うなよ人妻だよ! たまらんぜ」
そう言って帰って行った。
昼間は昼間の事情があるのだとそのときは思ったのだ。

夕方になると、会長さんと婆ちゃんが下に降りて来る。
すでに車が迎えに来ている。
ばあちゃんは「それじゃうーさん、また」
そう言って車まで会長さんを送り手を振る。
それを見ながら僕は「婆ちゃん青春してるな」と思うのだった。

それから数日後、僕は予備校の帰りに婆ちゃんに頼まれた品を買いに駅前のスーパーで買い物をしていた時だった。
僕の目の前を、見た人が通り過ぎて行く。
その人は30代の主婦でめがねを掛けていて、まるで「中学の数学の先生」を思わせる人だった。
「あのときの人だ」そう瞬間に判ったが口には出さないし、向こうも知らん顔している。
僕も知らん顔で横目で見ていると、左の手には5歳位の女の子を連れていた。
その光景は幸せそうな親子の風景そのものだった。

僕は黙ってそこを後にした。
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