夜の調理室 9 深夜のスポンジケーキ

 製菓のスポンジケーキの提出期限はその週の金曜日だった。本試験の後試験休み数日あり、秋分の日の前日、僕は家の台所で提出のスポンジケーキを焼いていた。分量が決められており、勝手な変更は認められなかった。その分量は
・薄力粉 百グラム
・上白糖 百グラム
・卵(中)四個
・牛乳  大さじ二杯
・ショートニング又はサラダ油 適量
 となっていて、分量の勝手な変更は、認められていなかった。判った場合はその場で落第する。
 手順は僕としては簡単だと感じた。まず卵を卵白と卵黄とに分離する。そして卵白を冷えたボールに入れ、泡立て器で泡立てるのだ。今は電動式のものがあるが、この頃は出始めで手でやるのが普通だった。
 コツは冷えたボールを使う事と手早くかき混ぜることだった。確かに労力は使うが特別に難しいことは無い。
 泡立て器で泡を立たせて立っほど固くなったらそれで良い。そこに、振るいに掛けた上白糖を入れる。製菓とか調理師学校では普通の砂糖の事は「上白糖」と呼び、他の砂糖とはそれぞれ区別している。
 これはかき混ぜると簡単に溶けるので、それにやはり振るいに掛けた薄力粉を入れる。ここで木杓子を使って粘りが出ないように切るように粉を溶かして行く。次に牛乳を入れてかき混ぜる。完全に溶けて生地状になったら、そこに卵黄を入れてやはり切るようにかき混ぜる。これでスポンジの生地が出来た。
 あとは、型にショートニングを塗って、製菓用の焼く型紙を入れる。内側にもショートニングを塗っておく。
 この型に生地を流し込んで行く。ちなみに指定された型の大きさは直径18~16センチとなっている。僕はスーパーで18センチのを買って来た。
 流し込んだら、生地から空気を抜く為に数回数センチの高さから落として気泡を出す。それが終わったら、オーブンで百八十度で二十分焼くのだ。温度の目安はオーブンの中に手を差し出して五秒で熱さを感じたら適温と言う事だった。電気式のオーブンなら温度を指定出来るがこの当時のプロのガスオーブン(ストーブ)では温度の管理は手動で行うのが常で、しかも自分たちは一応プロを目指しているのだから、温度の管理が出来なければお話にならなかったのだ。
 僕はわざと少し低くなるようにガスの目盛りを落とした。それは温度が低ければ状態を見て焼く時間を伸ばせば良いと思ったからだ。学校で先生の前で焼くなら、きちんと指定を守らねばならないが、出来上がりだけをチェックするなら、好きにすれば良いと思った。
 結局、三十五分ほど焼いて、指定のスポンジが焼きあがった。
「上手く出来た」
 自分でも感心するぐらいの出来栄えだった。それに気を良くした僕はそれから幾つもスポンジを焼いて家族に食べさせた。これは思ったより好評で、喜んでくれた。
 そんな事があり、あとは提出するだけと安心していた秋分の日の夜だった。家の電話が鳴った。電話の近くには丁度僕が居たので電話に出た。
「はい、風間ですが」
「ああ、翔ちゃん! 助けて欲しいの!」
 それは節子さんの悲鳴に近い声だった。
「どうしたんですか?」
「スポンジが焼けないの……わたし出来ないの。何回やっても駄目で……もう、どして良いか判らなくて」
 確かに試験でもスポンジを焼いたのは節子さんの班だった。確かあの時は、オーブンの温度管理に失敗して焦がしてしまったのだった。あの時温度を見ていたのが節子さんとは班のメンバーから聞いてはいた。
「駄目って、焦がしてしまうの?」
「そうなの。よくわかったわね?」
「何となくそう思った。でもオーブンは何を使っているの」
 そう尋ねた。僕の記憶では節子さんのアパートの台所にはオーブンは無かったと思った。オーブントースターならあった可能性はあるが、それでは焼けない。
「何って、学校で買ったやつよ。あれで焼けって先生言って無かった?」
 確かに、先生は「オーブンの無い人は入学時に買った簡易オーブンで焼きなさい」とは言ってはいた。でも僕は家のオーブンで焼くつもりだったので本気で聞いてはいなかった。
「どれぐらいやったの」
「昨日の夜から何回も作ったのだけど、皆焦げてしまったの」
 入学時に買わされた簡易オーブンはガス台の上にお釜上の金属の物体を載せて簡易的に中をオーブンの状態にして焼くものだった。その為の中皿もあった。そこに型を入れて焼いたのだろうと想像した。
「僕が作ったので良ければそれを持って行けば良いよ。どうせ誰が作ったのか判りはしないし。手順を完全に覚えれば問題ないと思うよ」
「手順って尋ねられるかしら?」
「『どうやって作ったの』ぐらいは訊かれると思うけどね」
「そうか、まあ手順は言えると思うけど……大丈夫かしら。先生『これ風間くんと同じじゃない』とかバレないかしら?」
「大丈夫だよ。僕が幾つか作って一番違うのを渡すからさ」
「そう、ありがとう! それを聞いてて安心したわ」
「それで何処で何時渡す?」
 暫く間があって、
「今日は水曜日で提出は金曜日でしょう? 翔ちゃんは何時が都合つけられる?」
「節子さんに合わせますよ。何なら持って行っても良いし」
「じゃあ今からなんて……駄目よね」
 僕は壁の時計を眺めて
「電車まだあるし。もし行ったら朝まで帰れないですよ。それでも?」
「良いわよ!」
 そう返事をした節子さんの声は少し潤んで聴こえた。

 節子さんの分は新しく焼いた。時間はさほど掛からなかったが、時間が少し遅くなってしまった。そこで僕は電車ではなくバイクで行く事にした。自動二輪の免許は高校の頃に取ってあった。自分の家では父親の125のスクータに乗っていたが、基本制限の無い免許だった。
 スクーターの後ろのボックスにスポンジを焼いた箱を入れた。動かないように箱をテープで止めてボックスの蓋を閉める。ヘルメットを被ってスクーターを走らせた。
 深夜の道は空いている。スピードを出したくなる所だが車に群れない程度の速さで走らせる。乱暴な運転をしたら後ろのスポンジが心配だからだ。
 三十分ほどで節子さんのアパートの前に着いた。スポンジの箱を持ちながら静かに階段を昇る。ドアをノックするとすぐに節子さんが顔を出した。
「本当に来てくれたのね! 上がって!」
 節子さんは僕の手を引いてくれたので、ありがたく上がらせて貰う。部屋の中は甘い匂いが充満していた。これはスポンジを焼いていた匂いだとすぐに判った。
 台所に行くと、無残にも焦げたスポンジの残骸が無数にあった。
「本当に駄目だったんだね」
「そうなの」
 僕は自分が持って来たスポンジを渡した。
「ああ、嬉しい! 翔ちゃんて料理の才能があるのね。卵焼きだって先生に褒められたし、スポンジだって簡単に作ってしまうし。凄いわ」
「そんな事ないよ。大体、昔から不器用だったのだから」
 節子さんは受け取ったスポンジを大事にテーブルの上に置いてから、いきなり僕に抱きついた。いきなり抱きつかれたので、僕はよろけて部屋の方に下がって行き、崩れるように倒れてしまって仰向けになった。その上に節子さんが覆いかぶさる。これって本来逆じゃないのかと頭の隅で考えたが何か言う前に口を塞がれた。
「ん……」
 この前とは比べられないほど濃厚な口づけだった。
 息が続くかと思った時に唇が開放された。とおでこがくっつく様な目の前で節子さんの口が開いた。
「節子さん……」
 もう一度口を塞がれた。
「駄目な私が泣き言を言って慰めて貰おうと電話したら、すぐに持って来てくれるなんて……もう、なんて言っていいか判らない!」
 「当然でしょう。困ってるのに後でなんて言えないですよ」
 寝転がったままお互い抱きしめ合った。節子さんの柔らかい躰が心地よかった。でも僕は節子さんの思惑を見抜いていた。
「僕の作ったのは保険でしょう? これから金曜の提出まで自分でちゃんとしたのを作ってみるつもりでしょう」
「何だ、判っていたのね」
「それぐらい節子さんの事なら判りますよ」
「もう年下なのに賢いんだから」
 半分拗ねたような。それでいて嬉しそうな表情は僕にとってはとても魅力的だった。
「それなら、これから一緒に作りませんか? 僕が教えますよ」
「ほんと! 嬉しい」
 それから節子さんの入れてくれたコーヒーを飲んでから早速スポンジを焼く事にした。そこで判った事は僕の考えていた通り、ガスの火が強かったせいだった。
「このお釜なら火は最低で良いと思いますよ」
「でも、それじゃじゃ時間通りに焼けないと思うけど」
「二十分で焼け無ければ時間を伸ばせば良いんですよ。何も先生の前じゃ無いのだから指定の時間は守る必要は無いと思いますよ」
「ああ、そうか! そうよね、私勘違いしていたわ」
 その後、このお釜で焼くと容積が小さいので火が高温になりやすい事が判った。そこで僕は本当に最低の火加減にして焼いたのだった。
「出来たけど翔くんの焼いた方が綺麗ね」
「そえなら僕の方を出せば良いですよ」
僕は節子さんにそう言った。その後は朝まで一緒に居て色々な事を話した。僕はますます節子さんに魅了され、そんな事を考えながら朝の家に帰った。幸い家族は誰も気がついていなかった。
 追試の提出日、先生はナイフでスポンジを切り、焼いた温度と時間を尋ねた。僕は指定通りの答えを言って合格を貰った。節子さんも僕の指定通りの答えを言って合格を貰った。その時先生は
「少し焼きが甘いけど、まあいいわ」
 そんな事を言ったとそうだ。合格を貰って節子さんは僕に
「お礼に今度二人でも何処か行きたいわね」
 そう言って嬉しそうな顔をした。

夜の調理室 8 最初の試験 

 調理師学校では栄養学とか公衆衛生とか、あるいは食品衛生学とかその他諸々の食に対する学問の授業がある。それは専門的で中には本当にここまで必要とされているのか? と疑問に思うような内容もあるが、一応国が決めた基準をクリアしていなくてはならない。
 尤も、僕が入学した学校は、他の専門学校よりも進んでいて、知識の分野では国の基準を上回る内容を教えている。それはこの学校が本来は栄養士を育成するために作られた学校であることから来ている。
 昼間部は一年。僕の通っている夜間部は一年半となっている。昼間の部は判らないが夜間部は半年毎に試験がある。各科目のペーパー試験と調理の実習試験だ。調理は、日本料理、フランス料理、中華料理、そして製菓と四科目ある。それにこの調理の科目も驚くなかれ、ペーパー試験があるのだ。噂だとフランス料理の試験はフランス語で書かれていて、答えもそれでなくてはならないらしい。大体英語だってろくに出来ないのにフランス語なんて無理だろう。そう思っていたら飯岡さんが
「大丈夫だよ。料理の基礎的な用語だと思うよ。例えば『アッシェ』とかさ」
 そんな気楽な事を言っていた。ちなみに『アッシェ』はみじん切りのことだ。その位なら何とかなると思った。フランス料理の最初の時に先生が黒板に色々な料理用語をフランス語で書いてくれたからだ。皆、それをノートに書き写している。
 実技試験で最大の難題は日本料理で、厚焼き玉子を先生が見ている前で拵えるのだ。分量が決められていて。手順も教えられた通りでなくてはならない。
「試験前は卵をたくさん買って練習しなくちゃならないわね」
 節子さんもそう言っていた。門倉さんは
「私卵焼きは得意なんだけど、これは勝手が違うから大変よ」
 やはりそんな事を言っていた。
 僕はと言えば、厚焼き玉子なんて作ったことが無い。先生の実演を見て頭の中に手順を叩き込んだ。
 家を探すとやはり料理屋だけの事はあり、卵焼き器は幾つもあった。他の人は恐らく合羽橋か、東急ハンズで買っているのかも知れない。僕はその中で一番大きさが学校で使うのに近い大きさの卵焼き器を出して来た。それはかなりの時代もので、かつ長い間使われていなかったので表面がはげていた。
 このような時は、油を引いて焼きを入れるのだ。「焼きを入れる」とはフライパン等の金属の鍋等を使えるようにするために、薄く油を引いて火に掛けるのだ。すると鍋からはやがて白い煙が昇るようになる。これを暫くの間放置するのだ。煙が少し治まって来たら次の油を引くのだ。これを何度も繰り返して、鍋の表面に膜を作るのだ。この作業をすると、炒め物をしても食材がくっつかなくなるのだ。
 休みの日、僕は朝から卵焼き器にこの作業をした。初めての事だったが、良い出来だったと思う。
 今から思えば日本料理だけが個人の試験で、他の料理は各班ごとの共同作業だった。出来が悪ければ班の皆が落第をする。そう言うシステムだった。
 試験は九月の終わりに行われる。だから夏休みは僕は家の仕事の合間に卵焼きの練習をした。家の手伝いをして貰える金額のかなりの部分が卵に消えた。
 その被害を被ったのが家族だった。毎日僕が作った厚焼き玉子を食べさせられたからだ。後に祖母は
「これまで食べてきたのと同じぐらいの量を食べさせられた」
 と言い、他の者は
「暫く卵は見たくない」
 そう言ったほどだった。
 厚焼き玉子の焼き方は、卵焼き器に油を引いて火に掛ける。温まって来たら、お玉一杯ほどの卵に出汁と砂糖が溶けている溶液を流し入れる。卵焼き器を回してむらなく流したら、焼けて来るので、すぐに向こう側の端を箸で押さえて手首を返して卵の生地を最初は三等分に折りたたむ。卵焼き器の向こう側半分が空くのでその部分に油を引いて折りたたんだ生地を向こう側に流す。そしてこちら側に油を引いて、次の溶液を流し込む。今度は箸で先程の生地を持ち上げその下に新しい溶液を流し込むのだ。あとは焼けて来たら半分に折りたたむ。この繰り返しで溶液が無くなるまで続けるのだ。焼けたなら、お皿に取っても良いし、巻き簾に巻いて丸く加工しても良い。大切なのは手首を使って生地を返せるかだ。これはフランス料理のフライ返しにも通じるので料理人としての基本中の基本となる。これが出来ないなら料理の道は変えた方が良い。
 夏の暑い間。僕は海やプールにも行かずに家でガス台の前で一生懸命に練習した。そのおかげで手首を使って返すコツは判って来て。ちゃんと出来るようになった。後は、本番に弱い僕だから先生の前で上がらない事だけだった。

 九月になり二学期が始まった。節子さんと逢うのは久しぶりだった。たまに連絡を取っていたが、彼女は事務所の先生が海外に長期旅行に出かけてしまったので、その間事務所は休みで実家に帰っていたのだ。だから東京の僕とは、逢う事は出来なかった。
「ひ・さ・し・ぶ・り!」
「ホント、久しぶりにですね」
「なぁに。何か冷たい感じ」
「え、そうですか。そんな事ないですよ。東京に帰って来たら連絡くれるかと思っていました」
「そう、それは悪かったわね。でも電話で話した感じでは、連日、卵焼きの練習していたみたいだし。翔くんは私とは違って将来は家を継いで板前になるのでしょう? ならばここはちゃんと練習しないと駄目だと思ったの。デートなら試験が終わってからでも出来るでしょう」
 確かにその通りだった。試験が終わるまでは色恋に狂ってる暇は無いのが本当だった。
 九月の末になり試験が始まった。最初はペーパー試験が最初で、一日二課目ずつ済ませて行く。内容はかなり高度だが、結局は暗記する科目が多い、食中毒の事など教科書を殆ど丸暗記しないと駄目だった。
 ようやく、ペーパー試験が終わった。心配だったフランス料理の試験は確かに全問フランス語で書かれていたし、答えも半分は記号を選択。もう半分がフランス語の単語を書くものだった。どれもフランス料理の時間に先生が黒板に書いたものだった。全問とは行かなかったが殆どを書くことが出来た。
 そして試験の後半である実技の試験が始まった。フランス料理と製菓の組み合わせだった。二つの班が共同して作業に当たる。僕たちの班は節子さんが居る班と共同になった。失敗すれば連帯責任となる。
 フランス料理の課題は「デミグラスソース」を作る事。製菓は「スポンジケーキ」を作る事だった。
 僕たちの班が「デミグラスソース」を、節子さんの班が「スポンジケーキ」を焼く事になった。
 結果だが「デミグラスソース」は何とか及第点を貰ったが「スポンジケーキ」は温度を間違えて少し焦がしてしまったのだ。結果は不合格となった。二つの班全員が一週間後まで各自それぞれ「スポンジケーキ」を焼いて、提出日に先生に提出する事となった。レシピは黒板に書かれてありその分量で作らねばならない。
「御免ね!」
「すみません」
 節子さんの班長さんが僕たちにも謝ってくれたが、終わってしまった事は仕方ないと思った。自分の家で焼けば良いと思ったら僕は返って気が楽になった。
 そしていよいよ、日本料理と中華料理だった。中華料理は切り方の試験だった。これは簡単だったが、その代わりに卒業時に「中華料理」と言うテーマで論文を提出する事となった。これはこれで大変だったのを覚えている。
 そして日本料理の試験となった。五人ずつ前に出て先生の前で厚焼き玉子を焼いて行く。僕は思ったより緊張しなくてスムーズに出来た。手首の返しは完全に身につていたからだ。
 結果から言うと僕はクラス五十人中トップだった。皆が終わると、その場で先生が点数と順位を言ったので判った。
 最後に名前を呼ばれた時にはクラスの目が一斉に向けられた。正直恥ずかしかった。
「風間はきちんと手首の返しが出来ていた。箸は添えてるだけできちんと出来ていた。中々のものだったよ」
 その言葉が嬉しかったの言う間でもない。凡そ、人から褒められる事なぞ今まで一度も無かったからだ。この日からクラスで僕を見る目が少しずつ変わって来たのをその時の僕は未だ知らない。
 そして、問題が起きた。

夜の調理室 7 朝のコーヒー

 目をつぶっていた節子さんが口を開いた。目は閉じたままだ。
「門倉さんもしかして泣き上戸なのかしら?」
 僕は、その時初めて泣き上戸とはかくあるものかと認識した。怒り上戸と酔うと説教を始める人とか酒乱は見たことがあったが、泣き上戸と言うのは初めてだった。
「そうかも知れませんね」
 僕の答えを聴いた節子さんはベットから起き上がった。薄明かりの中で浮かび上がったシルエットはそれは素晴らしいものだった。
 節子さんは壁に掛けたハンガーからスェットの上下を手に取りそれを着ると隣の部屋の門倉さんの所に行き
「どうしたの? 騙されちゃったの?」
 そう優しく門倉さんの肩のあたりを擦りながら尋ねる
「そうなの。私騙されたのよ」
「それ、誰にも言えなかったの?」
「うん、そうなの。だって、悔しくて悔しくて……私、お金も身も心も捧げたのに、あいつは遊びだったのよ」
 門倉さんの声は半分以上泣き声になっている。言葉の合間に泣き声が入る
「あんあんあん。私、初めての人だったの。だから夢中になって……馬鹿みたいでしょう。私馬鹿なのよ」
 段々嗚咽と言う感じになって来た。僕も只見ているだけには行かなくなった。僕もベットを降りて門倉さんの所に行き、後ろから門倉さんを抱きしめた。
「翔太くんありがとうね。今夜はその胸で泣かせてくれる?」
 とんでもない事を言うと思い節子さんを見ると『仕方ないわね』と言う感じでいる。それから門倉さんは向き直り僕の胸で泣き始めた。ぼくは仕方なく門倉さんの背中に手を回す。そのまま小一時間も経った頃だろうか、イビキを嗅いて寝ていた飯岡さんがいきなり起きて
「そんなにその男が良かったのかい?」
 泣いている門倉さんに尋ねたのだ。
「寝ていたのじゃなかったの?」
 節子さんが驚いて尋ねると飯岡さんはむっくりと起きて
「こんなにわんわん泣かれたなら寝ていられないよ」
 そう言うと門倉さんを自分の方に引き寄せて抱きしめた
「今夜は俺が抱いてやるから我慢しな」
 飯岡さんはそんな事を言うと、それまで泣いていた門倉さんは泣き声で
「だって飯岡ちゃん私の好みじゃないもの」
 そう言って満更でもない表情をした。
「と言う事で悪い」
 飯岡さんは僕たちと自分たちの部屋を仕切ってりつ襖を閉めてしまった。僕は節子さんの方に向き直る
「まあ仕方ないか。これで収まれば良いとしましょうか」
 確かに飯岡さんと門倉さんの問題だから他の人には何か言う権利は無いのかも知れない。でも部屋の主としては何も感じないのだろうか。そんな僕の気持ちを判ったのか節子さんは
「それも含めて仕方ないじゃない。これで二人が上手く行ったら私たちキューピットよ」
「節子さんはキューピットと言っても良いけど僕は全く違いますよ」
 可愛らしいキューピットと僕とでは全く似つかわないと思った。
 そんな感想を口にすると節子さんはベッドの上から僕の手を引き、ベッドの上にあげた。
「そんな事無いわよ。あなたはあの会場で一番光っていたわ。だから私は声を掛けたのよ」
 その目が真剣なのは薄明かりの中でもハッキリ判った。
「そんな事言ったら本気にしますよ。子供をからかうと火傷するかも知れないですよ」
 それが本心だったのかは今でも判らない。でもあの時僕は真剣だった事は確かだった。
 再びベッドに二人で横になる。節子さんはスェットを着たままだ。襖の向こうからは始めは泣き声が聞こえていたがやがてそれが甘い声に変わった。それが何を意味するのかぐらいは判ったが、それが本当の事なのかは判らなかった。只抱き合ってキスぐらいすれば聞えるような感じだったからだ。でも、それが節子さんの何かに火を点けてしまったみたいで、
「スェット脱いじゃおうかな」
 そんな意味深な言葉を口にした。
「脱いだら僕止まりませんよ。最後まで行っちゃうかもです」
「あら、もう知ってるの?」
「いいえ、未だ知りません」
「なんだ。じゃあ……」
「じゃあ?」
「このまま寝ましょう!」
「え?」
「だって、翔くんとそうなるなら、二人だけでもっとゆっくりした所でちゃんとしたいしね」
 確かにそれはそうだと思った。
「それが私の本気の気持ちよ。翔くんは?」
「そうですね」
 それしか言葉に出来なかった。本当は心臓が張り裂けるように鼓動が速くなっていて、頭もズキンズキンと脈打っていた。節子さんの甘い香りが鼻をついて、僕は正直おかしくなりそうだった。
 横になって節子さんの顔を間近で眺めていると不意に口が塞がれた。生暖かい感触が口の中を襲う。僕は口づけをされたのだった。
 呆然としている僕に節子さんは
「初めてだった?」
 黙って頷いた。
「じゃあもう一度。今度はゆっくりと感じて」
 再び暖かく柔らかな感触が襲った。僕は今度はその感触をじっくりと味わった。そしてキスは良いものだと思った。
「今度は別な場所でね。今夜はこのまま」
 それから僕と節子さんは抱き合って朝まで眠った。

 翌朝、やけにすっきりした表情で飯岡さんと門倉さんが襖の向こうから顔を出した。
「おはよう!」
「おはよう。昨夜は迷惑かけて御免ね」
 それを聴いて節子さんは仕方ないと言う表情をした。
「これからどうするの」
 そう二人に尋ねると飯岡さんが
「今日は京子を仕事を休ませて俺の家に連れて行くよ。俺の家ならゆっくりと寝られるし、それに昨夜のやり直しをするつもりだ」
 それを聴いて、昨夜は二人の間には僕と節子さんと同じような事しか無かったと思った。門倉さんが少し嬉しそうな表情で
「私たち交際することにしたの。結婚前提でよ」
 そんな事を言った。それは驚きだった。節子さんも
「決めちゃったの?」
 そう言って驚いている。飯岡さんが
「付き合って色々と相性が良ければ結婚すると言う事さ」
 そう說明をした。
「そうか、上手くやんなさいね」
 節子さんがそう言って二人を応援した。
 やがて二人は支度を整えると節子さんに礼を言って部屋を後にした。僕と節子さんの二人だけになった。
「コーヒー飲もうか?」
「いいですね。夜明けのコーヒーじゃ無いですがね」
「それは今度よ」
 節子さんはそう言って片目をつぶってみせた。

夜の調理室 6 酒の味

「もう一件行きましょう!」
 飯岡さんが空になった焼酎の瓶を確かめながら言うと門倉さんも
「そうよね。時間的にまだ早いしね」
 そう言って賛成した。節子さんは時間を確認しながら
「少しならいいか」
 やはりそう言って賛成した。僕は酔もあり帰りたかったのだが、正直立ち上がってマトモに歩ける状態じゃなかった。
「次は日本酒の美味しいところが良いな。この辺りに無いかな?」
 門倉さんは、飯岡さんにリクエストしている。節子さんは僕の耳元で
「大丈夫? 一人で帰れないなら、私の部屋に泊まって行けば良いわよ」
 何と、そんな事を言ってニッコリとするのだった。泊まれって、それって……早くも卑猥な考えが酔った脳内を駆け巡る。でも、それより、前に歩けるかが問題なのだった。
「じゃあ、とっておきの店に行こうか。そこは親爺さんが一人でやってる店でね。おつまみが少し置いてあるだけで他に食べ物は無いんだ。そこかわり色々な日本酒があるよ」
「素敵! そこ連れて行って!」
「よし! じゃあ行こうか」
 そう言って飯岡さんと門倉さんは立ちあがって会計をした。割り勘と言っていたが僕は少ししか食べたり飲んだりしなかったので、まけてくれた。
 立ちあがって歩き始めるとまっすぐ歩けない事が判った。これは不味いと思っていると節子さんが僕の躰を支えてくれて、左の腕を掴んでくれている。
「翔太くん平気?」
 門倉さんも少し心配してくれているが、きっと本気ではない。目が店の外に向いているからだ。
「場所と店の名を書いて秋山さんに渡しておくから、ゆっくり来れば良いよ」
 飯岡さんがそう言って自分のメモ用紙に何か書いて節子さんに手渡した。それを覗き込むと店の名「雪舟」と電話番号と簡単な地図が書かれてあった。それを見て節子さんも、ここから遠くないと判ったみたいだった。
「ああ、あそこの傍ね。判った。後で連れて行くわ」
「じゃあ、先に行ってます」
 飯岡さんはそう言うと門倉さんの腕を取って店を出て行った。残された僕と節子さんは、店員さんに水を持って来てもらって、それを口にする。
「まさか、お酒飲んだの初めて?」
 節子さんが殆ど顔をくっつけるような距離で囁くように言う
「まさか、でも強くないのは確かです。それでもこれぐらいで酔う事なんて無かったのですけどね」
「お腹空いていたのね。それで回ってしまったのね。ゆっくりで良いから歩ける?」
「何とか大丈夫かと」
 節子さんは僕の腕を取ってそれを自分の躰に当てて僕を支えてくれた。僕の肘のあたりに柔らかい感触を感じた。見ると僕の腕の一部分が節子さんの胸のあたりに触っていたのだった。以外なボリューム感に戸惑う。節子さんは着痩せするんだと思った。
 店の外に出ると、夜の冷たい風が頬に当り、少しずつ酔が冷めて行く感じがする。でも、人が見たら、若い男が酔ってふらついているだけにしか見えないだろう。
「今夜はウチに泊まりなさい。布団別にあるから翔太くんの分もあるわよ」
「え、でも……僕一応これでも男ですから……」
 正直、今のままなら朝まで何も起きないと思ったが、これで酔が冷めれば。正直、どうなるか判らないと思った。
 街の灯りがやけに綺麗に感じていて、僕は今見えている光景がお酒のせいなら、酔うと言う行為も悪くないと思った。
「ちゃんと歩ける?」
 節子さんが心配してくれている。こんな綺麗な女性に面倒を見て貰えて僕は幸せ者だ。本当なら
「あなたは帰りなさい」
 と言ってタクシーに僕を乗せて終わりのはずだった。多分、それが殆どの人がやる行為ではないだろうか。それとも考え過ぎだろうか、酔って思考の鈍った頭ではそれ以上考えられなかった。
「もうすぐだから頑張って」
 節子さん本当にすいません。僕みたいにだらしない男に関わったばかりに、介抱するはめになってしまった。本当に申し訳なく思っていますよ。そう頭では考えていたが、口から出た言葉は
「すいません。大丈夫です」
 そんな当たり障りのない言葉だけだった。
「ほら、あそこ」
 節子さんが差した指先には、路地の奥にぽつんと灯りが灯った小さな店だった。確かに看板に「雪舟」と書かれていた。
「連れて来たわよ」
 一間あまりの引き戸を開けて暖簾をくぐると、飯岡さんと門倉さんはもうお酒を飲み始めていた。カウンターに座った二人の前にあるのは、銀の器に氷を満たし、その中に置かれているガラスの瓶だった。
「冷酒飲んでいるのね。冷酒は後から効くと言うけど大丈夫?」
 節子さんが門倉さんの隣に座る。僕は更にその隣だ。
 するとひとり置いて門倉さんの向こうから飯岡さんが小さなグラスを節子さんに渡した。僕はもう飲めないので断った。
「じゃあ枝豆でも食べていて」
 門倉さんはそう言って僕に大きめのお皿に盛られた枝豆を渡してくれた。
「これは茨木の『一人娘』という名の酒だよ」
 飯岡さんがそう言って節子さんのグラスにお酒を注いで行く。
「美味しい! 優しい味ね。飲みやすいわね」
 節子さんはそう言って二口目で飲み干してしまった。飯岡さんは更に
「親父さん『住吉』はある?」
 飯岡さんに尋ねられたカウンターの向こうに居る親父さんは小柄な躰を背一杯背伸びして棚から一升瓶を取り出した。その瓶にはラベルに「住吉」と書かれてあった。
「どれほどかね?」
 親父さんの質問に飯岡さんは
「三人に波波と注いで飲もうと思っているんだ」
 そう言うと親父さんは別の小さな瓶に移し替えた。目分量だが三合ほどもあっただろうか
「これも素晴らしいお酒だから飲んでごらん」
 飯岡さんが三つの小さめのスリムなグラスにそれを注いだ。門倉さんが真っ先に口に運ぶ
「う~ん深い味ねえ。杉の香りがする」
「そうなんだ。杉の木の香りと飲みごたえのある芳醇な辛口が特徴なんだ」
 飯岡さんがそう言って解説をすると親爺さんが
「一度のこの酒にはまってしまった方はこればかりになってしまうケースが多く、店でも品切れが許されないお酒の一つですよ。黄みがかかった酒は炭素濾過をしていない酒の証なんです」
「他のお酒は炭素濾過をしてるから透明なんですね」
 節子さんがそんな感想を言いながらグラスを口に運ぶ
「このお酒が少し黄色いのは、そのせいなんですね。昔ながらの作り方なんですね」
 その飲み方はお酒を慈しむように感じた。節子さんの向こうを見ると飯岡さんと門倉さんは別なお酒も頼んでそちらも飲んでいる。考えたら二人共かなり飲んでいると思った。本当に二人は強いのだと感じた。
 その店にどのぐらい居ただろうか、店を出た時はかなり遅くなっていた。さすがに門倉さんは酔っている感じで、足取りも怪しくなっていた。飯岡さんは少し酔っていると思うが、未だ飲めそうな感じだ。僕は飲んでいなかったので酔いは冷めていた。節子さんも少ししか飲んでいなかったので、平常に近かった。
 節子さんが時計を確認すると
「あら、終電間に合わないわよ」
 いつの間にかそんな時間になっていた。
「何処かねぐらを探さないとな」
 飯岡さんがそんな事を言って辺を眺めている。
「ちょうど四人だからラブホテルにでも泊ますか?」
「男女二組に別れて?」
 節子さんがそう言って半分笑っている。
「いや男同士、女同士で」
 飯岡さんはかなり真面目そうに考えているみたいだが、所詮酔った頭だ。思考が及んでいない。
「いいわ。ウチならここからタクシーでも幾らも掛からないから、今夜はウチに泊りなさい。雑魚寝すれば良いでしょう」
 節子さんの提案に飯岡さんは
「良いの? さすがに不味いんじゃない?」
「あら何か不味い事しようと思っているの?」
「いや、そんな訳は無いけど、秋山さんに迷惑がかかるかと思って」
「いいの。そんなに気にしないから」
「それじゃ……」
 そんな訳で僕と門倉さん。それに飯岡さんの三人は節子さんのへやにで一泊する事になった。
 タクシーを捕まえて飯岡さんと門倉さんそれに節子さんが後ろに座り、僕が助手席に座った。
「〇〇町までお願いします」
「かしこまりました」
 メータを倒して車が走り出した。タクシーは十分ほど走って停まった。
「この先が部屋だから」
 節子さんが先頭に立って歩き出す。門倉さんの足が怪しいので僕が躰を抱えて一緒に歩き出す。飯岡さんは自分が歩くので精一杯みたいだ。
「ここよ、二階だから上がって」
 アパートの階段を節子さんが登って行く。僕は一度来ているが、まさかそんな事は口には出せない。
 この前は言わなかったが、部屋は六畳二部屋に風呂とトイレ、それに台所が付いた間取りだった。
「さあ入って頂戴」
「おじゃまします」
口々にそんな言葉を言って上がらせて貰う。相変わらず華やかで綺麗な部屋だった。
 節子さんは隣の部屋から布団を一組出して来ると
「雑魚寝で良いわよね。マクラも一つしか無いけど適当に使って」
 そう言って布団を敷いて門倉さんに
「さあ寝たほうが良いわよ」
 そう言って上着を脱がせ、下着姿になると横にならさせた。その姿に思わず目が行きそうになるのを堪える。
 横になった門倉さんに毛布を掛けた。
「さあ、飯岡さんも横になって」
 飯岡さんも上着を脱いでワイシャツとズボンになると門倉さんの隣に横になった。
「電気消しますからね」
 節子さんの声がしたかと思ったら暗くなった。その途端
「私たちはこっち」
 見るとこの前は閉まっていた襖が開いていて、シングルのベッドが見えていた。
「え、一緒に?」
「そうよ。他に何処に寝るの。私、翔くん以外が私のベッドに入るのは正直嫌」
「何も無いですよね」
 僕の言葉に節子さんは笑い声で
「当たり前でしょう。本当にお子様なんだから」
 そう言って嬉しそうな表情を見せてくれた。
 僕も上着を脱いでシャツとズボンになる。汚れてはいないが、このままベッドに潜り込むのは申し訳ない。
「男は細かい所は気にしないのよ」
 節子さんは僕の考えている事を判ったのだろうか? でも言われた通りにベッドに入らせて貰う。何とも言えない良い匂いがした。この香りは節子さんの匂いだろうか? そんな下らない事を考えていたら節子さんが入って来た。なんと節子さんはスリップ姿だった。
「ちょ! そんな!」
「大丈夫よ。裸じゃ無いから。何も無いわよ。さあ寝ましょう」
 節子さんがそう言って部屋の灯りを消した。僕は最初、節子さんと背中を合わせていたが
「こっち向いて寝ない?」
 そんな事を言われたので寝返りを打って節子さんと向き合う形になった。
「こうすればお話が出来るじゃない」
 この時、僕はこの先理性を保っていられるか自信が無かった。
 そんな時だった、突然隣の部屋の隣の布団からすすり泣く声が聞こえて来た。
「うう~んうう~ん。わたし騙されたのよ。あんあんあん」
 段々声が大きくなって来た。隣の飯岡さんはイビキをかいて寝ていて起きそうも無い。これは嫌な予感しかしなかった。僕と節子さんは至近距離で見つめ合うのだった。

夜の調理室 5 飲み会

 週末の事だった。金曜日の授業が終わると飯岡さんが僕と節子さん、それに門倉さんに
「呑んでいきませんか? 明日仕事ですか?」
 そう提案した。僕は特別用事は無かったし、家の仕事も明日は暇なことを確認していた。節子さんも
「明日は事務所休みだから良いわよ」
 そう返事をした。門倉さんは少し考えてから
「まあ、いいか。私が店に出なくてもスタンドは回るでしょう」
 そんな事を言って結局四人とも一緒に呑みに行くことが決まった。
「何処に行くの? 飯岡さん良い店知ってるの?」
 門倉さんが興味深そうに尋ねると
「そうだな。新しい居酒屋形式の店が出始めたんだよ。今日はそこに行って色々と参考にしようと思ってね」
 この頃、今ではすっかり定着している居酒屋がチェーン店化し始めた事だった。
「それは面白そうね」
 節子さんがすぐに賛同した。
「翔太くんは?」
「僕は何も知らないから、何処でも良いです。皆さんにお任せします」
 そう言って、繁華街でもある隣の街に歩いて行くことになった。電車に乗れば返って時間が掛かるからだ。 
 十分ほど歩くと小綺麗な黄色い看板の店が見えてきた。
「あそこですよ」
 飯岡さんの言葉に節子さんが
「何がお薦めなの?」
 食べ物の事を尋ねる。すると飯岡さんは
「大抵のものならメニューに乗っていますよ。それに、そこでは酎ハイがあるんですよ」
「酎ハイ? なぁにそれ?」
 さすがに門倉さんも知らないみたいだ。
「焼酎を炭酸で割ってレモンのスライスを入れたものです。飲み口が良く飲みやすいんですよ」
 今でこそ、何処の店でもあるが、この頃は焼酎とかホッピーは皆が知っている飲み物とは言えなかった。ビール、日本酒、それにウイスキー等が主流で焼酎は安酒場で呑まれるお酒と言う感覚だった。
 それが、焼酎に色々な風味の飲料を混ぜる事で飲みやすさが受けて、次第に広まって行った。
 店に入ると週末だからか結構混んでいた。飯岡さんは常連らしく店の人に片手で指を四本立てて見せていた。すると店長らしき人が
「奥の席が空いてますから」
 そう言って店の奥の仕切られた一角を指差した。
「丁度よい場所が空いていたね。あそこは個室みたいなものだから邪魔が入らないから丁度よいよ」
 僕と節子さんと門倉さんは飯岡さんに従って奥の一角に陣取った。すぐに店員がお通しを持って注文を訊きに来た。
「俺は酎ハイかな。皆は何にする?」
 飯岡さんが尋ねると門倉さんが
「じゃあ私もそれを飲んでみるわ」
 そう返事をして節子さんも
「私も試しに飲んでみる」
 そんな事を言ったので僕だけ生ビールとは言い難くなってしまった。
「じゃあ僕もそれで」
 結局四人が酎ハイを飲む事になった。すぐに運ばれて来たのはビールの中ジョッキに透明な液体とレモンのスライスが浮かべられたものだった。炭酸が入っているらしく細かい泡が立っていた。
「それじゃお疲れ様。カンパイ!」
 それぞれがジョッキを握った手を伸ばして軽く重ねた。
「ああ、美味しい。飲みやすいわね」
 門倉さんが真っ先に感想を言うと節子さんも
「ホント、飲みやすいわね」
 そんな事を言って結構な量を喉に流し込んだ。僕はと言うと元々お酒は飲めない方なのだが、これは飲めそうだった。
「確かに僕でも飲めそう」
「だろう。これからはこれが主流になるよ。将来は俺の店でも出すつもりなんだ」
 飯岡さんはもう自分の店を開く事を考えているみたいだった。
「さて何を食べるかな」
 テーブルに置かれたメニューには本当に色々なモノが載っていた。少しでも飲食業を知っている僕からすると、こんなに多くのメニューは仕込むのが大変だろうと思った。
「私、おでんがいいな。大皿で取って皆で突けば良いしね」
 早速、門倉さんが注文をする。飯岡さんはやはり焼き鳥だ。節子さんは少し迷って半片のチーズ焼きを頼んだ。僕は唐揚げにした。それと皆でつつくのに野菜サラダを注文した。
 最初のジョッキを直ぐに飲み干した飯岡さんと門倉さんは、二杯目の酎ハイを頼んだ。飯岡さんはホッピーも注文した。飯岡さんは濃いのを注文した様だった。ホッピーで割るのだろうか。少し飲み方が気になった。
 話が弾んで楽しい雰囲気となった。僕も節子さんも二杯目を頼んでいた。
「もう少し何かお腹に入れた方が良いよ」
 飯岡さんが注意をしてくれた。確かに空腹にいきなりお酒を入れたからだ。その言葉に従って厚揚げ焼きを注文した。厚揚げにかつを節がたっぷりと乗せられているやつだ。
 二杯目も半分ぐらい減った時だった。何だかテーブルが自分の座っている場所からやけに遠く感じるようになった。隣の節子さんも先程までは僕にくっつく様に座っていたのに今は手を伸ばさないと届かない所に座っている。
『これはおかしい』
 とすぐに感じた。酔っているのだろうか。正直僕は、お酒なんか余り飲んだ事が無いのだ。酔うと言う事は楽しい事だと僕の先輩諸氏は言っていたけど、正直僕は余り楽しくは無い状態だった。躰も何かフラフラしている気がするし、皆の声も遠い所で話している感じがした。この時僕は自分が酔ってる状態だと把握した。
「どうした風間ちゃん」
 その声をした方に振り向くと、飯岡さんが彼方の方角で僕の事を心配していた。でもその質問にすぐには答えられない僕。
「翔太くん大丈夫? 何だかおかしいわよ」
 節子さんも心配してくれる。門倉さんが遠くからグラスに入った水を差し出してくれた。
「ほら水飲んで」
「ありがとうございます。何だか皆さんが遠くに居る感じがして……」
 やっとそれだけを口にして門倉さんが出してくれた水を飲んだ。誰かが「酔い覚めの水値千金」と言ったが、酔い覚めでは無いものの、確かに酔った時の水は美味しかった。
「少し横になった方が良いよ」
 飯岡さんがそう言って場所を開けてくれた。
「すいません。二杯しか飲んでいないのに」
「二杯じゃないわよ。未だ残っているわよ。それより変な心配しないで休んでいなさいね」
 門倉さんに言われて確かにその通りだと実感した。実に情けないと思った。その後は眠ってしまったのだろう。暫くして、顔に冷たいものを感じて気がついた。
「あ、起こしちゃった?」
 節子さんが冷たいおしぼりを額に乗せてくれたのだった。
「ありがとうございます。本当に申し訳ないです」
「いいのよ。そんなこと気にしなくて」
 節子さんはそう言って、僕の頬を右手で撫でてくれた。柔らかい感触が僕を少し現実に戻してくれた。
「二人は?」
 門倉さんと飯岡さんの事が気になった。確か二人共お酒に強いと記憶していた。
「もう二人で盛り上がって大変」
 節子さんが、そう言って二人の方角に視線を移した。僕は節子さんに手伝って貰って起き上がって二人の様子を見ると、お互い陽気な声で何かを話している。どうやら飯岡さんの故郷の静岡の話らしかった。
「静岡も秘境があるんだよ」
「へえ~何処なの?」
「静岡は県の北部が南アルプスに掛かっているから、井川だとか山の方は本当に秘境なんだ。熊も出るしね」
「へえ~そこは温泉あるの?」
「ああ、あるよ。井川温泉って言って素晴らしい温泉があるんだ」
「今度皆で一緒に行こうよ」
「そうだね」
 二人の間では旅行の計画も進んでいるみたいだった。飯岡さんは門倉さんに酎ハイを勧めている。どうやら僕が眠っている間に焼酎をボトルで取って、飯岡さんはホッピーで、門倉さんはサワーで割って飲んでいるみたいだった。
「ね、盛り上がってるでしょう。私だけ残されてしまったのよ。翔太くんが居なかったから」
 節子さんはそう言って僕に怪しい視線を向けるのだった。飲み会はこの後更に盛り上がり、最後は大変な事態になる事を僕も他の皆も未だ知らない。
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