風に吹かれて 5

 今日の会について神山は主催者ではないが、提案者なので主催者側の人間となる。だから乾にも神山名義で招待状を送ったのだ。
 楽屋に挨拶をした後で、開場してお客が入って来るのをホールの隅で眺めていたら、後ろから声を掛けられた
「神山さん。今日はお招きに預かりありがとうございます。折角ですのでやって参りました」
 振り向くと乾だった。
「これは乾先生。お忙しいので、まさか来て戴けるとは思ってもみませんでした」
 乾は神山より歳上であり、しかも評論家としての格は遥かに上なのでこのような言葉遣いになるのは仕方なかった。
「いやいや。これでも私は落語は大好きですからね。だから落語の将来が不安で堪らないのですよ」
 乾の言い方は一見何でも無いようだったが、神山は腹の底に何かを隠してるのを感じていた。
「今日は楽しみです。演目を見たら、判り難い噺ばかりですからね。名人の仙蔵師や達者な柳生師が難題の古典をどう演じるのか興味が尽きないですよ」
 神山は乾の言葉に返答する。
「まあ今日は特に、そのような会ですからね。乾先生にもご覧戴いて、今でも古典が立派に通用するのを見て戴けるなら嬉しいですね」
 神山は今日の会が先日の乾のコラムに対する答えの会だという事を暗に言葉に出した。すると乾は
「神山さん。勘違いされては困るのですが、私は古典も好きですよ。でも今は未だ判る世代の方もいらっしゃるけど、あと二十年も経ってご覧なさい。今の三十代が五十を超えてる。その世代が全く判らない言葉や生活様式を下敷きにした噺が通用するのか? ということなのですよ。だから私は今のうちに古典落語は大衆芸能から保存を目的とした古典芸能に看板を付け替えるべきだと思うのです。このままならやがて古典落語は見向きもされなくなる可能性もあります。今は盛り返しましたが一時はお客が本当に入らなくなってましたよね。今やチケットが取れない噺家さんがトリをとってもその頃は半分もお客が入らなかった」
「確かにあの頃はそうでした」
「それは古い新作が幅を利かせていたからです。いつもでも、『おい木村くん。何だい佐藤くん』じゃ通用しませんよ。それを打破したのが三猿亭圓城師ですよ。彼の『革命落語会』は落語界に衝撃が走った。曰く、落語は今を描かなければならない。と言うテーマのもと斬新な新作が集まって演じられました。それからです。お客が新しい新作を聴きに集まって来たのは。勿論、それに対抗して古典落語も復活しました」
「それを再びやろうと言うのですか?」
 神山の質問に乾は
「再びというより、新たに現代を抉るような新作を出したいですね。それでこそ古典落語は古典芸能の立場を確立出来る」
「と言うと、何かおやりになるのですか?」
 神山の質問に乾は
「そうですね。この会に対抗する訳ではりませんが、新たな新作の会をやろうと考えています。精鋭のメンバーを集めて、今までに無い新作落語を披露しようと思っています。日時は未だ未定ですが、判ったら神山さんにも招待状をお送りしますので是非にも聴きに来て欲しいと思っています」
 乾の言葉に神山は
「それは楽しみにしております」
「それでは」
 乾はそう言って神山の前から遠ざかった。角を曲がる時に乾に寄り添ったのは神山の目が確かなら三猿亭圓城の弟子の圓斉だった。神山はそれを見て、仲入りの時でも楽屋の皆に伝えておこうと思った。

 遊蔵は自分の出囃子「小鍛冶」に乗って高座に出て行った。この会場は何回か使った経験があり、噺家にとってはやり易い会場だった。声の響きなども満足出来るレベルものだった。
 遊蔵が高座に姿を表すと一斉に拍手が沸き立った。若手真打として名が登りつつあった。将来を嘱望される噺家の一人になっていた。師匠の娘を妻に迎えて、将来は仙蔵を継ぐのではと思われている事も事実だったが、本人は今の名を大きくするつもりでいた。
「え〜お次は、わたくしでございます。小金亭遊蔵と申します。今日は根多出ししております通り『金明竹』をやるのですが、この噺は判らない言葉の連発ですので、どうか付いて来て欲しいと思っております。今日は寄席と違って待っていませんので、そこのところ宜しくお願いいたします」
 遊蔵がそう言うと、ドッと笑いが起きた。この噺は前半は与太郎が叔父の店の店番をしているが、ことごとく失敗を重ねる。しかし与太郎は叔父に言われた通りの事をやってると思っているので、何故怒られるのか理解出来ない。そんな後半で問題が起きる。遊蔵は前半の傘のくだりも、猫のくだりも笑いを上手く取って後半に繋げて行く。
 神山は高座の袖から見ていて「上手いものだな」と思っていた。かってはこの噺は三代目金馬師の独壇場で、ラジオでも人気を得ていた。噺は後半に入って行った。叔父が帰って来たが、与太郎の対応の不始末に再び出かける羽目になる。今度は女将にも言いつけて間違いの無いようにして出かけて行くのだが、そんな時に問題の人物が来店する。
「わては、中橋の加賀屋佐吉方から使いに参じまして、先度、仲買の弥市が取り次ぎました、道具七品のうち、祐乗・光乗・宗乗、三作の三所物。ならび、備前長船の則光。四分一ごしらえ、横谷宗珉の小柄付きの脇差……柄前な、旦那さんはタガヤサンや、と言うとりましたが、埋もれ木やそうで、木ィが違うとりましたさかい、ちゃんとお断り申し上げます。次はのんこの茶碗。黄檗山金明竹、遠州宗甫の銘がございます寸胴の花活け。織部の香合。『古池や蛙飛びこむ水の音』言います風羅坊正筆の掛物。沢庵・木庵・隠元禅師貼り混ぜの小屏風……この屏風なァ、わての旦那の檀那寺が兵庫におまして、兵庫の坊さんのえろう好みます屏風じゃによって、『表具にやって兵庫の坊主の屏風にいたします』と、こないお言づけを願いとう申します」
 と言うのだが与太郎はさっぱり判らない。単なる乞食芸人だと思ってしまう始末だった。幾度も言い直されてて使いは怒ってしまうが、ここで女将が登場してもう一度言って貰うがやはり判らない。そのうち使いは帰ってしまう。その後旦那の叔父が帰って来て、何か無かったかと女将に問うが、しどろもどろで何を言っているのか全く判らない。唯一分かったのが、使いが中橋の加賀屋佐吉から来たものだと言う事。旦那は
「あそこにはあいつに道具七品を買うように手金を打ってあったんだが、それを買ってかい?」
「いいえ買わず(蛙)」
 と下げた。
 この噺は途中で出てくる言葉が関西なまりがもあり、そもそも専門用語だらけなので殆ど判らないのだが、判らないことを前提として噺が作られているので問題無いのだ。むしろ乾に言わせると昔の商家の習慣が、今では全く無くなってしまったのが問題だとされるのだろう。
 サゲを言って遊蔵が拍手に送られて高座から降りて来ると
「お先に勉強させて戴きました」
 と自分の師匠と柳生に挨拶をする。柳星が「お疲れ様でした」と言って高座返しに出て行く。この後は柳生が「竃幽霊」を演じて仲入りとなる。その後は食いつきで仙蔵と柳生の対談となり、トリの仙蔵の「居残り佐平次」となる。
「今日は時間もあるから、たっぷりやるからな」
 そう予告していた。
「いい出来だったじゃねえか」
 仙蔵が遊蔵にそう声を掛ける。柳生も「良かったね」と言って、出囃子の「外記猿」の鳴る中楽屋を出て行くのだった。

風に吹かれて 4

 既に開場は満員となっていた。全席予約のみなので立ち見がいないはずだが、なぜだかちらほらと後ろの通路に立っているものがいる。彼らは取材の人間なのだ。この落語会を取材して報道しようとやって来た者達だった。
 落語ファンはもとより、乾のコラムはマスコミを賑わせていた。あの意見に賛成する者、反対の意見を述べるもの、それぞれが言いたい事を発言していた。これこそが乾が目論んでいた事だった。彼は最初から目的があって、あのような発言を書いたのだった。だがその真意は彼と取り巻きの噺家数名しか知らない。

「満員だそうですよ」
 柳星が開場を覗いて来て、自分の師匠の柳生や遊蔵と仙蔵に報告する。
「まあ前売りが完売で当日券は少ししか無かったそうだから、満員になるだろうね」
 遊蔵が足袋を履きながら答えると仙蔵が
「シュークリームもう食べちゃった」
 そう言って名残惜しそうに紙袋を眺める。柳生が
「師匠、私の分もどうぞ」
 そう言って勧めると
「え、良いのかい。嬉しいねえ。甘いもの駄目なのかい」
 そんなことを尋ねるので柳生は
「いいえ、買ってきた者が食べるのもどうかと……」
 そう答えたので遊蔵がそれを聞いて
「そうか、そんな価値観もありますよね。お持たせなんて事もありますからね」
 そう言ってフォローする、仙蔵はそれを聞いて自分の荷物から四合瓶を取り出した
「これ昨日の旅先の地酒なんだそうだ。良かったら飲んで見てくれ」
 そう言って柳生に差し出した。
「ありがとうございます! 酒は好きなんですよ」
「だと思った」
 仙蔵がそう言って笑った。横では遊蔵が柳星に
「本当は今日柳生師匠と一緒になるので、何が良いか悩んで買ったのだけどね」
 そう小声で耳打ちをする。すると仙蔵が
「余計なこと言うな」
 そう言って窘めた。そんな事をやってるうちに時間となった。柳星が羽織を着て出囃子が鳴り出すのを待っている。
「出囃子は何になったんだっけ?」
 遊蔵が尋ねると柳星は
「『藤娘』です。下座の師匠方がこれが似合ってるからと勧めてくださいました」
「あれって、本当に自分に合うのを勧めてくれるよね。凄いよね」
 遊蔵が感心していると仙蔵が
「馬鹿、下座の師匠方は本当に邦楽に造詣が凄いんだぞ」
 そう言いながら笑っている。柳生も
「出囃子と言えば自分と仙蔵師匠は同じ『外記猿』でしたね」
 柳生と仙蔵は同じ出囃子なのだ。これは普段の協会が違うから寄席では同じでも問題無いのだが、このような落語会で共演すると出囃子が被ってしまう
「まあでも今日は俺がトリだから『中の舞』になるから大丈夫だろ」
 寄席や落語会などではトリに出る者は自分の出囃子ではなく『中の舞』を使うのが習わしとなっている
「じゃ師匠と共演しても大抵は大丈夫ですね」
 柳生がそう言って笑うので仙蔵が
「どうしてだ?」
 訝しむので弟子の遊蔵が
「だって落語界で師匠より上の人物なんて、もう引退同然でしょう」
 そう言って仙蔵より香盤の上の噺家のことを語った。そうしたら仙蔵が
「馬鹿、そういう時はその師匠がトリだよ」
 そういうので皆がはっと気がついたようになった
「違いないですね」
 柳生の言葉が終わった時に柳星の出囃子「藤娘」が鳴り出した
「よし行って来い!」
「お先に勉強させて戴きます」
 柳生の声に送られて柳星が楽屋から飛び出して高座に向かった。

 場内はシーンと静まっていた。それはこれから始まるという合図の木がチョーンと打たれたからだ。その後「藤娘」が流れ出して会が始まった事が告げられた。
「藤娘」の艶やかな三味線が流れると、それに乗って柳星が高座の袖に姿を表した。一斉に拍手が湧き起こる
「え〜開口一番でございます、麗麗亭柳星と申します。柳星と言っても流れ星じゃありませんので、どうかお見知り置きを」
 挨拶をするとマクラに入って行く
「もう少ししますと東京や関東でも桜の季節となりますが、昔から日本人は桜が好きでして、何時から花見をするようになったかと言うと、これが古くて平安時代の中頃だったそうですな。それまでは花見というと梅だったそうです。桜で良かったですよね。梅の時期なら寒くて仕方ありません。きっと流行らなかった可能性がありますね。花見に行って風邪引いちゃいますよね」
 どっと笑いが起きる。
 噺は江戸の版だと、自分の長屋の悪い噂を耳にした大家さんが、それを払拭しようと長屋総出で花見をしようと計画をする。この時代の大家とは今だと管理人に当たる職業で、これが判らないとこの噺は理解出来ない。この頃の今の大家に相当するのは家持ちとか地持ちとか言って大家とは呼ばなかった。家賃の管理もしていると家持大家、という言い方をしたのだ。
 柳星は勿論そんな事を説明はしない。しかし聴いた者が自然と理解出来るように噺を進める。
「大家さんからの呼び出しだとさ。何だと思う」
「そりゃお前家賃の催促だろうさ。お前ちゃんと払ってるか?」
「そうさなぁ前に払ったのは去年の盆だったかな」
「へ〜そりゃ文句言われるぞ」
「お前はどうなんだ」
「俺は一月さ」
「一月しか貯めてないのかい?」
「いいや入る時に一月入れただけ」
 等と語り、大家さんが家賃の管理人であることをさり気なく判らせている。またこの噺の価値観が今と違う所が後半にも出て来る。それは卵焼きと蒲鉾の事である。この頃卵は高級品でそれをふんだんに使った卵焼きはご馳走だった。蒲鉾もそうであり、かの信長は蒲鉾を最高のご馳走と語っていたほどで、その辺りが今とは全く違うのだ。ここでも柳星は
「卵焼きかぁ。何時以来かな」とか「ありがたいね蒲鉾だってさ、生涯で食べられるとは思ってもいなかった」
 とか登場人物に語らせた。噺ではこれが卵焼きはたくあん。蒲鉾は大根だったのだが、今や無農薬の品なら下手な卵焼きや蒲鉾よりも高い。
 やがて噺は下げにかかる。下げはお酒と思っていたのが実は番茶で、それを渋々飲んでいたのだが、一人が
「大家さん。長屋に近々良い事がありますよ」
 と言うので大家も
「そうかい。それは良かったな。でもどうしてだい?」
「へえ、湯呑みに酒柱が立っています」
 と落とすのだが、今の若い人はこれが理解出来ない。これはお茶の茶柱が湯呑みに立っていたのだ。茶柱が立つのはかなり安いお茶だと言う事、良いことがあると言うのはそれらを隠す為とも言われていること。
 さらに、この場で酒を呑んでるのに茶柱の事は言えないので機転を利かせて「酒柱」と言ったという事を瞬時に理解出来ないとこのサゲが理解出来ないのだ。だから噺家が学生相手にこの噺をすると全く受けないのだそうだ。
 だが今日のこの会場の客はそんな事もなく、ウケに受けてサゲが決まった。柳星は拍手の中、頭をサゲて高座を降りた。
「お先に勉強させて戴きました」
 柳星がそう言って挨拶をする。高座では次の遊蔵の出囃子「小鍛冶」が流れ始めていた。遊蔵がやはり
「お先に勉強させて戴きます」
 そう挨拶をして高座に出て行った。

風に吹かれて 3

 会場は押さえ、出演者や演目も決まったがやることは多い。チケットの手配や広告も必要だった。手配は主催の「よみうり版」が印刷して、各プレイガイド等に頼んだ。このあたりは慣れているのでお手の物だ。
 編集長の佐伯がノリノリで
「箪笥会館じゃ勿体なかったな。千人規模でも完売したんじゃないか?」
 などと言うので神山が
「そんな広い会場じゃ所作が判らんだろう。今回はそこも大事なんだから」
 そう言って佐伯を窘めると
「まあ、そうだけどさ、なんか勿体なくてな」
 悪びれずにそう言った。神山は
「好評だったらちゃんとした落語会にして数カ月間隔で開催すると言う案もあるよ」
 そう言って、この会を続ける積もりがあると語った。
「そうか、それなら規模の拡大も出来るかな?」
 佐伯はあくまでも規模を拡大したいようだった。それに対して神山は
「かの『二朝会』のようにプレミアムチケットになるかも知れない」
 そう言って今や伝説となった三代目古今亭志ん朝と五代目春風亭柳朝の開いていた二人会のことを語った。
「『二朝会』かあ……。あれは凄かったそうだな。俺は生まれた頃だから噂しか聞いてないが、凄かったと聞いてる」
 佐伯の言葉を聴いて神山は
「まあ、それほどでは無いにしろ、落語ファン垂涎の会にはしたいものだな」
 そう言って作成中のパンフレットを眺めた。佐伯も
「じゃパンフも頑張るよ。お前も原稿載せてくれよな」
「ああ、今週中にも送るよ」
 準備は着々と整いつつあった。

 乾泰蔵は演芸評論家の神山孝之から来た落語会の招待状を眺めていた
「へえ〜よっぽど私の書いたコラムが気にいらなかったと見えるね。まあいいさ行って聴いて、古典落語の駄目さを書いてやろうじゃないか。勿論名人の芸は褒めて古典落語の駄目な部分をくさしてやろうじゃないか。こっちにも味方の噺家はゴマンと居るんだ」
 そう言ってほくそ笑んで招待状を自分の机の引き出しにしまった。
「しかし先生、落語界の半分を敵に回して何をおやりになるんですか」
 乾にそんな質問をしたのは新作落語の旗手とも言われる三猿亭圓城だった。乾は
「それは師匠もかって語っていたように古典落語は邪道だと言うことだよ。寄席の落とし噺というものは世情の粗を扱ったり生活に根付いたものでなければならないと思いますよ。ネットもテレビも無いましてや、電気もガスもない頃の話なんかしてもこれからの若者はついて来ませんよ」
 乾はそう言った。圓城は
「そう言って貰えると嬉しいですね」
「まあ見てて下さい。それと、新作派のメンバー集めておいて下さいね」
 そんな事を言った。言われた圓城も
「それは今進めているところです。楽しみにしておいてください」
 そう答えてニヤリと笑った。

 三月のある日、東京、神楽坂の箪笥会館は開場を待つ人々が出来ていた。チケットを売りに出すと、それほど安い値段では無いのに関わらず、僅か数日で完売となった。
 この日神山は主催者の一員として、そして取材も兼ねて会館に来ていた。楽屋に顔を出す。楽屋には柳星と遊蔵が居た
「おはようございます。早いですね」
 神山がそう声を掛けると二人が
「おはようございます! 神山さんも早いですね。ウチの師匠は多分未だ家ですよ」
 遊蔵がそう言うと柳星も
「ウチの師匠はもうすぐ来ると思います。今朝から張り切っていましたから」
 そう言って柳生がこちらに向かっていることを告げた
「柳星くん。今日は前座もやらせて悪いね」
「いえ、大丈夫です。結構あるんですよ。連雀亭なんか二つ目だけで廻していますからね」
 その時だった楽屋の扉が開いて柳生が入って来た。両手には洋菓子店の名前が書かれた袋が下げられていた。
「師匠言ってくだされば一緒に行きましたのに」
 柳星がそう言って柳生の持っていた紙袋を受け取って楽屋の隅に置いた
「いや急に思い立ってね。片方は出演者や我々の分。片方は照明さんやスタッフの方々の分」
 この箪笥会館は照明や音声などは会館のスタッフが行ってくれる。柳生はその分も買って来たのだった。それを見て神山は柳生らしいと思った。
「シュークリームです。確か仙蔵師匠も好物でしたよね」
 柳生の言葉に遊蔵が
「柳生師匠よく知ってらっしゃいましたね」
 そう言って驚くと
「前に一緒になった時にシュークリームを嬉しそうに食べていらしたのを覚えていたんですよ」
「喜びますよ。特にここのが好きなんです。修行時代は良く買いに行かされましたよ」
 遊蔵はそう言って紙袋を眺めた。その時仙蔵がやって来た
「お揃ってるね。うん俺の好物がそこにあるじゃないか」
「あ、師匠、柳生師匠が買って来てくれたんですよ」
 遊蔵の説明に仙蔵は
「ありがたいねえ。高座に上がる前に食べさして戴きますよ」
 そう言って嬉しそうな顔をした。
 楽屋に会館の従業員が顔を出し
「開場時間ですので開場致します。出演者の方は準備お願いします」
 いよいよ落語会が始まろうとしていた。

風に吹かれて 2

 高梨との話から数日後の晦日、神山は上野鈴本演芸場に居た。目的はこの日余一会で行われる小金亭仙蔵独演会の取材とゲストで出演する麗々亭柳生に会う為だった。余一会とは大の月の三十一日に寄席で開かれる会の名称で、十日間間隔で興行を行ってる寄席では三十一日は余ってしまうからである。
 柳生は噺家芸術協会の所属だから本来は鈴本には出られないのだが、この独演会の主催者の小金亭仙蔵は落語界を代表する噺家で、しかも噺家協会の幹部でもある。その大物が鈴本の席亭と噺家芸術協会に掛け合ったのだ。
「どうしても自分の独演会に柳生を出演させたいのです」
 これについては、さすがの芸協の幹部も拒否は出来なかった。というのも、以前は芸協も鈴本で興行を行っていたのだが、入りが悪いので席亭が芸協の幹部に
『噺家協会から助っ人を一二名番組に入れたらどうか』
 と提案したのだが、これに当時の幹部は自分たちの協会が卑下されたとして激怒し、鈴本では協会の噺家は出演させないと通告したのだ。それ以来この鈴本に芸協の噺家が出演した事は無い。
 だから今回の事は特別なのだ。もしここで仙蔵の頼みを断れば噺家協会との関係も悪くなるし、今度は自分の協会員が噺家協会の会員の出演を頼んでも拒否されかねないと判断したのだ。それに当時の幹部はこのところ次々と亡くなり存命は、当時の会長だった古今亭麦丸だけとなっている事もあり、協会の雰囲気としては、若手からは話す場所の拡大を求められている事もあり、やがては和解しなければならないと言う雰囲気がある事も原因だった。
 麗々亭柳生は今や芸協を代表する噺家に育ち、名人としての評価の高い仙蔵と同じ高座に立たせてみたいと思う幹部も居たのだった。
 独演会は前座の後の開口一番で仙蔵が挨拶をして今日のゲストの柳生を紹介した後で「二番煎じ」をやった。その後で柳生が「初天神」を演じた。その後は仲入りとなり、食いつきでは仙蔵と柳生の対談で、膝として三味線漫談の師匠が出て、トリに仙蔵が「文七元結」をやって追い出しとなった。神山は仲入りで楽屋に挨拶をした時に柳生に
「終わったら少し噺があるんだけど」
 そう頼み込むと
「噂聞きましたよ」
 柳生がそう返すので
「え、早いな……」
 驚きに近い感想を口にすると、奥に居た仙蔵が
「それ、聞いたよ。面白そうじゃない。俺にも一口乗せて下さいよ」
 そんな事を言って来たのだ。神山は
「じゃあ、終わったら何処かで飲みながら」
 そういうと二人供了解したのだった。

 終演後、鈴本の近くの行きつけの居酒屋で神山は二人を前にこの前の高梨との事を語った。すると仙蔵が
「正直、あのコラム俺も読みましたよ。腹が立ちましたね。古典落語の事を全く判っていない」
 神山に注がれたぐい呑の酒を口にしながら感想を口にした。柳生もグラスのビールに口に付けると
「彼は古典落語の本質を判っていない感じですよね。表面的というか、軽いというか」
 そう言って仙蔵の言葉に同意した。神山は、お通しの黄金烏賊に箸を着けながら
「それなら、いっそ古典の中でも特に判り難い噺をやる落語会をやろうかと言う方向になりましてね」
 この前の高梨との経過を口にすると仙蔵が
「郭噺なんてやってる方も聴いてる方も未経験なんだよな」
「そうですね。自分もやってて想像なんですよね。前座の頃に経験のある師匠の話は聞きましたけどね」
 柳生が仙蔵のぐい呑に酒を注ぐと神山が
「それでも分かちゃうというのが落語の凄い所ですよね」
「そうそう。そうなんだよな。俺も師匠の先代から色々と話は聞いたけど実際は知識としては知っていても経験は無いからな」
「今の吉原にあるソープランドの経験とは似て非なるものですからね」
 神山の言葉に仙蔵は
「神山さんも独身の頃は通ったのかい?」
「ええ、まあ、それは誰でも経験があるでしょう」
「ちげえねえ」
 仙蔵がそう言って笑った。それを横目で見ながら柳生が
「具体的な事は決まってるのですか?」
 そう言って実際の事を神山に問うと
「今のところは『よみうり版』の二階のホールでやろうかと考えているんです」
 それを聞いて柳生は
「あそこなら四十人が限界でしょう。勿体無いですよね。きっと聴きたい落語ファンは居ると思いますよ」
 柳生がそんなことを言うが神山は
「でも二つ目ですからね。そんなには……」
 神山が言い淀んでいると柳生は
「神楽坂の『箪笥会館』なら区営ですから安く借りられますよ。あそこなら三百五十は入る」
 神山はそれを聞いて
「いや埋まんないですよ。遊びの企画で赤字は出せないでしょう。『よみうり版』もキツイでしょうし」
 そう言って話が大きくなる危惧を口にした。そうしたら仙蔵が
「俺と柳生が出れば問題ないだろう。足りねえならウチの遊蔵も出しても良いしな」
「婿さん出しますか。ならウチも柳星を出して前座の仕事もやって貰いましょうか」
 二人のやり取りを耳にして神山は
「二人共正気ですか? 洒落遊びの企画ですよ」
「だから面白れえじゃねえか」
「そうですよ。そういう所に本気を出すのが粋なんですよ。ねえ師匠」
「そうだ。決まりだな。後で都合を連絡するから」
 神山は事が大きくなり始めたことを実感して戸惑うのだった。
 その後、二ヶ月後に新宿区営の神楽坂の箪笥会館を借りて会を催す事になった。会の名前は「古典落語を聴く会」となった。これは特別な名前を付けるのではなく古典落語の本質を追求しようという目的からだった。
 出演メンバーは小金亭仙蔵、麗々亭柳生、に加えそれぞれの弟子の小金亭遊蔵と麗々亭柳星が出る事になった。遊蔵は若手真打で柳星は二つ目である。演目は仙蔵が「居残り佐平次」、柳生が問題の「竃幽霊」、遊蔵が「金明竹」、柳星は「長屋の花見」となった。
 演目を決めたのは仙蔵だが、曰く
「『居残り』なんざ判らない言葉とシステムの噺だしな。それでも笑いを取れると言う事を見せてやるよ。それに問題の「竃幽霊」と残りの演目も言葉は判らないけど笑いを取れる噺ばかりだ。これは面白くなるぞ」
 そう言ってほくそ笑む仙蔵に神山は
「乾先生には招待状を出しましょうか?」
 そう言うと仙蔵と柳生は
「勿論ですよ」
 そう言って二人はニヤリとするのだった。

風に吹かれて 1

 神山は高梨が開いた雑誌のページに目を落とした。それには……。

 生憎と「生活文化評論家」などと言う肩書を持ってる為、仕事で結構寄席や落語会に顔を出すことが多い。無論生来の落語好きだから、そのことに関しては苦にならないのだが、気になることがある。
 私生活でもお気に入りの噺家が出る時や落語会を開く時はチケットを取って見に行く事も多い。だからという訳ではないが、以前から気になっている事をここに書かせて貰う。
 落語。特に古典落語の多くはその元が江戸時代。新しいものでも明治の初期に作られたものが多い。生活に根ざした落語は当時の風俗を噺の中に登場させている。
 その後の数多の噺家が改良を加えて新しい時代に沿うようにしていても、二十一世紀の今日に至っては流石に綻びが大き過ぎて継衛くなって来ているのでは無いだろうか? 事例を書いてみる。
 私はあるカルチャースクールで講師をしている。その生徒さんに質問を幾つかしたことがある。内容は、落語に関するものだった。
 私の講義を聴きに来るほどだからほぼ全員が比較的に落語に親しんでいる方々である。その年齢層は二十代が少し、殆どは三十代から四十代が多い、五十代の方もいらっしゃるし、少しだが六十代より上の世代の方もいらっしゃる。
 その生徒さんに「竃」(へっつい)が何か判るか問うてみたのだ。結果は六十代以上の方はほぼ全員が「判る」五十代の方も「理解している」と答えて下さったのに対して、四十代以下の世代の方は全員が「知らない」と返答があった。中には「知らないけど何か大事なもの」と答えてくれた方も居て、それはそれで間違ってはいないが、漠然とし過ぎている。私が
「竃とはかまどのことですよ」
 と言うと三十代以下の世代の方々はかまども知らなかったのだ。こんなことは幾つもあり、古典落語に登場する生活風俗が今となっては全く変わってしまった為に、多くの観客が噺の本質を理解出来ないままになっているのだ。
 勘違いされては困るが、落語は大衆芸能である。能狂言や歌舞伎みたいに見る前に予習が必要な芸能ではない。しかし、現代人の生活とかけ離れた世界を描いているのは同じである。このまま行くと落語は全く判らない価値の無いものに落ちて行く未来が見えるではないか。そのうちに「全く価値のないもの」になる前に、落語の関係者は大衆芸能の看板を下げて能狂言や歌舞伎のように古典芸能の仲間に入れて貰った方が良いと思う。そして大衆芸能として優れた新作落語がその座に座るべきである。

                 生活文化評論家  乾 泰蔵

 ある落語会が終わり、神山孝之はホールで、旧知の「東京よみうり版」の記者の高梨によびとめられ、彼が出した雑誌のコラムを読んだところだった。それをテーブルの上に置く。神山は先年、長年勤務していた演芸情報誌「東京よみうり版」を退社しており、フリーの演芸評論家として活動していた。
 退社した理由は、一人娘の恵が保育園に通うことになり、その送迎を普段は神山が担当することになった事もあるし、元から会社以外から原稿を依頼されることが多く「よみうり版」としても基本的にそれを許可していたこと。それは中小出版社である「よみうり版」としてもそれほど多くの報酬を支払えない事もあり、神山がフリーになることを勧めたのだ。無論、会社を離れても神山は「よみうり版」に記事を連載しており、それは読者にとって好評なようだ。
 妻の薫は女優、橘薫子(たちばなきょうこ)として芸能活動しており、ドラマや映画には常連のように出ている。時間があれば妻の薫が子供の恵の送迎をするのだが、いかんせん売れっ子なので、中々時間が取れない。そこで夫の神山が担当することになったのだ。
「どうですかそれ、神山さんはどう思います乾さんは結構テレビにコメンテーターとして出ていますけどね」
 高梨に言われて神山は
「どうって言われてもな。そもそも門外漢が何を言ってるんだというのが正直な感想だが、言葉や生活の違いは痛いところだな。無論噺家の中にはそれを理解して噺をわかり易くをモットーにしてる奴もいるけど、そう言う噺家ほど」
「評価が低いですよね」
「何だ判っているじゃないか」
「それは神山さんの後輩ですからね」
 高梨はポケットからタバコを出して火を点けて神山にもタバコの箱を差し出して勧めた
「いや、子供が出来てから電子たばこに変えたんだ。女房が嫌がってね」
「薫さんらしいですね。確かに吸いませんからね」
「子供に悪影響があるからだろう」
 電子たばこを吸いながら神山は
「今度、我こそは落語通という連中を集めて、特に通じない言葉や用語が多い噺を聴かせる落語会を開いたら面白いな」
 神山の冗談のような提案を聞いた高梨は
「それ面白いですね。編集長に提案してみますよ。編集長もこの雑誌の記事に対して腹に一物ありそうでしたからね。それにそのレポートを神山さんが書けば更に面白いですね」
「どこが主催するんだ? よみうりでやるのか、佐伯が許可出すか?」
 佐伯とは神山の同期で今は「よみうり版」の編集長をしている者のことだ。神山の言葉に高梨は煙を吐き出しながら
「実力のあるふたつ目さんでやれば、それほど経費は掛かりませんし、場所はウチの社の二階のホールで出来るでしょう」
 神山は二階のホールの様子を頭に描いてみた。
「高座を作って、パイプ椅子を並べてか?」
「まぁそうなりますね。最低でも三十人は入るでしょう」
 神山も頭の中で描いてみて、三十人は最低だと思った。詰めれば四十以上は入りそうだと思った。出演するふたつ目を二人にしてたっぷりと演じて貰う。入場料を二千円として四十で八万円。経費を引いた残りをギャラに充てれば何とかなりそうだと考えた。
「兎に角、このコラムは編集長も読んでいますから、落語会の話は提案してみますよ。神山さんも乗り気だって言って」
「そうか、具体的なことが決まったら柳生に声かけてみるよ。生きの良い奴を知ってるだろうしな」
 神山の言葉に高梨は
「柳生師と言えば弟子の柳星くんが二つ目になっていましたよね。彼も結構評判が良いんですよ」
「ああ、身近に居るので存在を忘れていたよ」
 神山はそう言って遠い目をした。


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