この都会の営みの中で  3

src_10136733  時間は瞬く間に過ぎて行く。あっという間に土曜になった。実は泰葉は水島と偶然逢った次の日も、その次の日も水島に逢えるかもしれないと密かに思っていた。友達の学食への誘いも断って購買の列に並んでみたのだが、とうとう逢えなかった。もしかするとあの日は本当の運命の再会では無かったかと少し考え始めていた。
 同居のあかねに相談してみたら
「そうかも知れないし、その彼がわざと泰葉と逢わないように行動してるのかも知れないわよ」
「そんな事して何の得があるの?」
「より印象づけられるじゃない」
「そんな事より、わたしは毎日逢いたい」
「あら、もう恋に落ちたんだ」
「違うわよ。懐かしいじゃない。この東京でわたしの町を知ってるのは、わたしの周りでは、あかねと彼だけだもの」
「随分と狭い世界だこと」
 あかねは笑って自分の部屋に下る
「日曜ありがとうね。泰葉も頑張りなさいよ。彼氏が出来ればわたしも色々と頼みやすいしさ」
 そんな事を言って襖を閉めた。それを見つめながらLINEをしてみた
『明日は宜しくね!』
 返信は期待していなかったが一時間過ぎても既読にならなかった。LINEを開いていないのだろうか、少し気になった。
「まあいいか。明日になれば逢えるから」
 そう考え直して床についた。

 翌日曜、泰葉はあかねの事を考えて少し早く家を出た。自分が出た後で色々とやることがあるだろうと考えたのだった。
 日曜は電車も驚くほど空いていた。それでも自分の育った町よりか人は多かった。
「そうだよね。東京だものね」
 そんな言葉が自然と口をついて出た。
 大学の正門に行くと既に水島が待っていた。すぐに泰葉の姿を認めると
「ごめんね。LINE貰っていたのに返信出来なくて」
「何かあったのかと思っちゃった」
「実は、大学で逢った翌日にスマホを落としてガラスを割ってしまったんだ。それで修理に出していたのだけど、代替え機が機種が違っていてね」
「そうか、納得した」
「でも、今から考えると電話すれば良かったのだと今朝になって気がついたよ」
「それで治ったの?」
「うん、今朝取って来た」
 蓮葉はLINEを立ち上げると先日のメッセージに既読がついていた。
「何処へ行く? それよりお腹空いたかな?」
 水島に言われてそう言えば朝食も食べていない事に気がついた。お腹に手を当てると
「じゃあ、何処かに入ろうか」
 水島はそう言って通りの方に歩いていく。泰葉も一緒に歩き出した。
「何が食べたい?」
「う~ん。うどんが食べたい!」
「うどん?」
「うん。だって東京に出て来てから田舎のようなうどんは食べてないから、お汁が透き通ったうどんが食べたいな」
 水島は泰葉の希望を聴いて少し考えてから
「じゃあ、僕の家の近所のうどん屋で良い?」
「え、水島くんの家の近所なの?」
「うん。そこに同じ街の出身の人がうどん屋を営業してるんだよ」
「そうなの!」
「だから僕は幼い頃から、その店でうどんを食べていたから、町に引っ越しても食生活は困らなかったんだ」
 そう言えば、あの頃水島は東京とは違う町の味付けにも、すんなりと受け入れていた事を思い出した。親戚でさえも違う地方に住んでると町の味には馴染めないものなのに……。
「水島くんの家って何処?」
「地下鉄ですぐだよ。荒川区の町家と言う街さ」
 地図の上で、そんな所があるのは知っていたが、まさか自分が東京に出て来て早々そこに行くとは思わなかった。
 大学の最寄りの駅から地下鉄に乗ると車内は空いていた。車両の中ほどに並んで座った。反対側の黒い窓に二人の姿がくつきりと映っている。それを見るとまるで恋人同士に見えた。心の中でピースをする。
「町家は俗に下町と呼ばれる地域でね。狭い道の左右に沢山の家が立ち並んでいてね。都会的じゃ無いけど、家だけじゃなく人と人も近い距離で生きている街なんだ。東京でも田舎みたいな場所だよ」
 初めて聞く水島の心の内だった。
「下町なのに?」
「下町と言うのはさ、本来は城下の町と言う意味なんだ。だから江戸の場合は江戸城だから、そのすぐ下の町と言うと神田や日本橋となるんだよ。ぜいぜいが本郷までなんだ。むしろ町家なんて在だよ」
「在って?」
「田舎と言う意味さ」
 水島はそう言って笑った。その横顔を見て泰葉は水島に改めて好意を持った。
 地下鉄を町家で降りて、五分ほどの場所に目的のうどん屋はあった。暖簾には「町屋庵」と染め抜かれていた。水島は慣れた感じで暖簾をくぐる。泰葉も後に続く
「いらっしゃい! 毎度。お、今日は彼女連れかい。やっとだなぁ~」
 いきなり店の親方の声が掛かる。
「違いますよ。彼女、親方と同じ町出身なんですよ。この春出て来たんです。今日は田舎のうどんが食べたいと言うから連れて来たんです」
 泰葉は自己紹介をした。
「初めまして、同郷の神城と申します」
 そう言って頭を下げると親方は
「神城……って、棚田の神城さんかい?」
「はい、そうです! 棚田の神城です!」
「そうかい! 誠司さん元気かい?」
「はい父は元気です!」
「そうかい、じゃあ、あんたもしかして泰葉ちゃん?」
「え、わたしを知ってるのですか?」
「ああ、何回か会った事あるよ。さあ座りなよ。それなら特別なのを作ってあげるから」
 親方はそう言って張り切って厨房に入って行ってた。
 水島と泰葉は店の端のテーブルに向かい合って座った。店の人が水を持って来てくれた。
「注文は親方任せで良いですか?」
「はい、お願いします」
 水島はそれだけを店の人に伝えた。
「ねえ。そう言えば今日は、中学の頃好きだった人の事教えてくれる約束よ」
 泰葉の言葉に水島は少し考えてから
「約束だからね。仕方ないな」
 そう言ってコップの水を一口飲むと
「その人は客観的に見ると、特別な美人では無かったかも知れない。でも僕にとっては特別な存在に思えたんだ」
 そう言って泰葉の目を見つめた。その仕草が特別な意味を持っているとはこの時は未だ思っていなかった。
「それで」
 泰葉が催促をすると水島は
「ちょっと控えめでね。それでいて傍に居て欲しいと思った時は必ず傍に居てくれた子だった」
 水島は、その頃の事を思い出したのか、少しはにかんだ表情をした。
「クラス委員だった浅野ゆう子ちゃん?」
「全然違いますねえ」
 水島の目が一層嬉しそうになった。そこまで行った時にうどんが運ばれて来た。青いネギに街の特産の竹輪の天麩羅が乗せられていた。他にも山でたくさん取れるゼンマイの煮たものが器の端に乗せられていた。勿論お汁は澄んでいる。そっと器を両手で持って口に運んだ。
「この味! そうこの味なの!」
「昆布と鰹節とジャコで取った出汁だよね。僕も好きなんだ」
 うどんも柔らかいのに腰がある町のうどんだった。
「徳島のうどんも腰があって好きだけど僕はこのぐらいが丁度いいな」
 水島の言葉に泰葉も頷き
「おじさん! サイコーに美味しい!」
 そう調理場に答えると親方は嬉しそうに頷くのだった。

 支払いをしようとしても、
「同郷だからこの次から貰うよ」
 そう言って受け取らないので、二人とも何回も礼を言って店を出た。
「あ~お腹いっぱい。何処かで休みたいな」
「じゃあ近所の公園にでも行くかい。ちょっと変わってるけど」
「変わってる? なあに」
「行けば判るよ」
 水島は地下鉄の駅の横に走っている都電に乗った。上を見ると電車が走っていた。
「京成線だよ」
 泰葉はちっとも田舎では無いと思った、地下鉄の他に都電や私鉄まで走っている。泰葉の田舎の町とは大違いだと思った。
 都電を二駅で降りた。目の前には大きな工場みたいな建物がある。階段があって上に登れるようになっている。
「下は下水処理場だけど、この上は大きな『荒川自然公園』と言う公園になってるんだ」
 確かに長い階段を登ると一面が大きな公園になっていて、真ん中に大きな噴水があり周りを花壇が取り囲んでいる。
 二人はその広場にあるベンチに腰掛けた。
「ああいい気持ち」
 泰葉が言った通り、空は青く澄んでいて雲一つ無い。春の暖かい風が二人を包んで行く。
「どう悪くない場所だろう」
「そうね。でも何だか判らなくなっちゃった」
「何を?」
「この街の事を水島くんは田舎だって言ったけど、鉄道が三つも走っていて都会だと思ったらこんな広い公園が広がっているなんて」
 泰葉の言葉に水島は
「神城さんは、都会だとか田舎だとか気にし過ぎだよ。何処だってそこに住んでいる人にとっては大事な場所なんだと思う」
 何だか泰葉は自分が酷く子供に思えた。やはり水島は何処か違うと思った。
「そうだ。さっきの続き聞かせて」
「さっき……ああ、好きだった人の事?」
「うん」
「今、目の前に座ってる子さ」
 泰葉は一瞬、水島が何を言っているのか理解出来なかった。
「わ・た・し?」
「そう神城さん。いいや泰葉ちゃん。君だよ! ずっと好きだった。今でも忘れられない。だから僕は神様にお願いしていたんだ」
「何を?」
「一度で良いから、神様泰葉ちゃんに逢わせて下さいって。だから念願が叶ったので実はお礼参りをしてたんだ。神様にちゃんとお礼を出来るまでは自分勝手には行動しないってね。勿論スマホのガラスが割れた事も本当だけどね」
「本当にたしの事を想っていてくれたの?」
「ああ、最初は単に可愛い子だとしか思わなかったけど、三年間同じクラスになって友達として色々な話をして行くうちに惹かれたんだ。でも卒業したら東京に帰る僕には告白する権利さえ無いと考えたんだ。だから今まで言えなかった。今、交際してる人居るの?」
「ううん。いない。わたしがそんなにモテる訳無いから」
「じゃあ、僕と交際して下さい。お願いします!」
 泰葉は今朝までこんな事になるなんて思っても見なかった。まさか……憧れだった水島が恋人になってくれるなんて……これは現実だろうか、思わず自分の頬をつねってみた。
「痛い……本当なのね……こんなわたしで良かったら、宜しくお願いします」
 そう言った瞬間泰葉は水島に思い切り抱きしめられた。どちらかと言うとクールな水島がこんな情熱的な事をするとは信じられ無かった。だから本当に水島が自分の事を想ってくれていたのだと実感出来た。
「水島くん。ちょっと痛いわ」
「ごめん。余りにも嬉しくて……断られたらどうしようかと想っていたんだ」
 何とも言えない水島の表情を見て、泰葉は胸がキュンとなるのだった。泰葉にとって東京での生活は希望に満ちたものになりそうだった。
 空が二人を祝福している感じだった。



                       <了>

この都会の営みの中で  2

  二人はキャンパスでもベンチの多い場所に座った。泰葉が手にしている飲み物はいちご牛乳である。それを見た水島は
「そう言えば、中学の時もそれが好きだったね。思い出したよ」
 そう言って笑っている。そう言う水島が手にしてるのはコーラである。
「パンとコーラって合わない気がするけど」
 泰葉の疑問に水島は
「そうかな? 結構合うと思うんだけどね」
 そう言って気にしていない感じだった。
「炭酸とパンは合わないよ」
 泰葉のその言い方が少し幼く思えた水島は
「そう言えば中学の頃はスーパー……なんて言ったけ?」
「ハナマルスーパー」
「そうそう。夏なんかそこでかき氷も食べたね」
 水島に言われて泰葉はその頃の事を少し思い出した。泰葉にとっては田舎での出来事は正直言うと過去の事にしてしまいたかった。でもその想いに甘酸っぱい想いがこみ上げて来た。泰葉にとって水島の存在は憧れの都会の想いと重なって眩しかったからだ。
「そう言えば、水島くん、いつもブルーハワイばかりだった」
 泰葉は唇を青くしてかき氷を食べていた水島の事を思い出していた。何をしても洗練されていると思っていたが、青い唇をしている水島の姿はごく普通の中学生だった。
「何で、あの頃ブルーハワイばかり食べていたの?」
 泰葉の疑問に水島は
「それはね、かき氷のシロップは実は皆同じ味で、色が違うだけって説があってね。それが、どうしても信じられなくて、一番嫌いなブルーハワイを食べてもイチゴ味がするか実験していたんだ」
「はあ? そんな事で?」
「そうだよ。だって、それが証明されれば何を食べても自分の好きなものの味になると言う事じゃないか」
 何でもないような素振りを見せて水島は口に入れた菓子パンをコーラで流し込んでいた。その姿を見て中学の頃と変わっていないと感じた。
「どうしたの?」
 水島はパンも食べずに自分の顔をぼおっと眺めている泰葉を不思議そうな顔をして見ている。
「あ、何でもないの。そう言えば水島くんは中学の頃何で彼女作らなかったの?」
 泰葉の知っている限りでは水島は中学の頃は特定の彼女を作らなかったはずだった。都会の風を身にまとっていた水島は色々な女子から憧れの存在で、随分告白されたはずだった。泰葉の友達も随分告白したと思う。
 パンを飲み込んだ水島は目の前の花壇に植えられた花を眺めながら
「だって、僕は中学の三年間しかあそこには居られない事は最初から判っていたからね。そんな時間を限られた中では特定の交際相手なんか作れないよ」
「でも中学の間だけでも良かった気がするけど……それとも皆田舎ぽかったから興味が湧かなかったとか?」
 泰葉の言葉に水島は
「そんな事は無いよ。東京でも滅多に見ない程の可愛いい子も沢山居たしね。じゃあ神城さんは交際を始める時に時間を区切って交際するの? 僕には出来ない。交際を始めたらずっと付き合っていたいし、出来れば結婚なんて事になれば素晴らしいと思っていたんだ。それは今でも変わらないけどね」
 泰葉は水島の意外な一面を見たと思った。都会的で洗練されてはいるが、何処か軽くて泥臭い事とは無縁な存在だと思っていたのだ。
「だから、本当に好きな人が居たけど、僕からは告白出来なかった。中学生なんて離れて住んでしまえば当初は兎も角、長く交際が続く訳はないと思ったからね」
 そうだったのかと泰葉は思った。あれだけモテたのに特定の相手を作らなかったのは、そんな考えがあったのかと思った。
「だから友達は多く作ったよ。男女関係なくね」
 そうだった。水島の周りには何時も多くの友達で賑わっていた。クラスでも休み時間になると多くの男女が水島を取り囲んでいた。泰葉もその一人だった。
「その本気で好きな人の名前を聞きたいな」
 冗談で言ってみた。あの頃好きだった水島が誰を好きだったのか知りたかった。知って高校や中学の同期会で話題にしたかった。
「いや、それは勘弁してよ」
「ええ~。じゃあヒントだけでも」
「辛いから駄目」
「わたしの知ってる子?」
「まあ、知ってるね」
「誰だろう……」
 その後も泰葉は水島に食い下がったが水島は口を割る事は無かった。
「メアド交換しようよ。また逢ってくれるかい?」
 水島の申し出に泰葉は喜んで応じた。二人はメアドとLINEを交換した。東京で再会したかっての好きな人は都会の輝きこそ無かったが相変わらず素敵だと思った。
「学部は違うけど、時間作るから、逢おうね」
 その日はそう言って別れた。水島が去って行くと、クラスの友達が寄って来て
「凄い! 神城ちゃん彼氏出来たんだ!」
 そんな事を言って囃し立てた。
「違う違う。中学の時の同級生で、三年ぶりに偶然会ったから懐かしくて話をしただけだよ」
「でもその顔は満更でも無い感じがしたわよ」
 そう言われて実は悪く無い気もした。
 その夜、ベッドに横になりながら今日の昼休みに起きた事を考えていた。このまま行けばまた水島と友達になれるだろうか?
 その先に行く事は出来るだろうか?
 自分が水島の恋人になれるだろうか?
 考えても結論は出なかった。その時、あかねが顔を出した。
「起きてる?」
「うん起きてるよ」
 襖を開けてあかねが部屋に入って来た。
「実はお願いがあるんだ」
「なあに?」
「今度の日曜日、実は彼氏が来るんだ。だから……」
 あかねの頼みは判った。要するに今度の日曜に彼氏が部屋に来るので、泰葉には部屋を空けて欲しいと言う事なのだ。
「良いわよ。わたしの時も宜しくね」
 半分冗談で言ったのだが、あかねは驚いて
「もう東京で彼氏が出来たの?」
「出来ないわよ。そのうちと言う事。それより何時頃帰れば良いの?」
「ありがとう! 午後八時頃ならもう帰ってると思う」
「来るのは?」
「十二時過ぎかな」
「結構長時間なのね」
「だって、お昼を一緒に作って食べるでしょう。一緒にDVDも見て、その他にも色々とあるから」
 泰葉はきっと、その他の事の方が大事なのではと思ったが口には出さず
「判った。じゃあ、その日はわたしも誰かとデートしようっと!」
「誰?」
「だから誰かよ!」
 泰葉のその言い方が可笑しくて二人は笑ってしまった。
 あかねが部屋に戻るとスマホにLINEの着信音が鳴った。相手は水島だった。
『今日は楽しかったです。出来れば毎日逢いたいけど、それは無理なので、今度の日曜に逢えるかな? 何か用事がある?』
 冗談であかねに言った事が現実になろうとしていた。
『中学の時に好きだった子を教えてくれるなら、喜んで!』
 半分は冗談のつもりだった。そんな事を教えてくれなくても、日曜は行くつもりだった。
『仕方ないね。その日に教えます。これで良い?』
『では喜んで。何時に何処?』
『十二時に大学の前でどう?』
『オーケーです! では日曜十二時』
『その他にもメッセージ送るからね』
『それもオーケーよ!』
 今日の朝まで水島とこんな事になるなんて思ってもいなかった泰葉だった。

この都会の営みの中で  1

 泰葉はワクワクしていた。何故なら、この春に地方の高校を卒業して、東京の大学に進学するために東京に出てきたばかりだった。憧れの都会にやっと出て来たと言う想いだった。
 住んでいる場所は大学からさほど遠くない場所で、二つ年上の従姉妹のあかねの所だ。あかねは先日このアパートに引っ越して来たのだが、如何せん一人では部屋の数も家賃も負担だった。
 既に社会人として働いているあかねだが、思ったより家賃が負担になっていた。そこへ従姉妹の泰葉が大学に合格して東京に出て来ると聞いたのでルームシェアを申し出たのだ。
 泰葉の親としても一人暮らしでは色々と心配だが、東京の生活に慣れたあかねなら安心出来ると考えたのだった。あかねも家賃や光熱費や水道代が半分になるので助かったのだ。
 泰葉とあかねは田舎では良く行き来していたし、従姉妹でも特に仲が良かったので一緒に暮らすには打ってつけで何の不安もなかった。

「それじゃ泰葉、わたし仕事だから先に出るね、。戸締まり宜しくね」
「判った! いってらっしゃい~」
 泰葉はあかねを送り出すと自分も大学に行く準備を始めた。大学は始まったばかりでオリエンテーションが終わってやっと科目を選択したばかりだった。今日から講義が始まるのだった。
 鍵を掛けて大学に行くために最寄りの駅まで歩いていく。東京に出て来たばかりの時は上手く電車に乗れるか心配だった。なんせ泰葉の実家のある町では駅はあるものの一両編成のディーゼル車が日に五本ほどしかやって来ない。反対の方向も数えても日に十本だ。
 殆どは朝と夕に振り分けられており、午前十時を過ぎると午後二時過ぎまで全くやって来ない。だから泰葉は雨が降らない限り高校には自転車で通っていた。
 町には高校生が遊ぶ様な施設などは全く無く、町内で唯一あるスーパーのイートインコーナーで紙コップに入った甘いコーヒーやコーラを飲むのが関の山だった。
「あ~早く卒業してこの町を出たい!」
 それだけが望みだった、だからこうして春になり東京に出て来たのは、まさに新天地に降り立った気分だったのだ。
 アパートから駅までの道のりも田舎の町とは違う。道の両側は家かビルが立っていて田圃や畑なぞありはしない。街の空気も肥やしの混じった匂いなぞしない。何処からか花の香りさえ漂っているのだ。
 東京に出て来て直ぐに泰葉はあかねに代官山に連れて行かれた。そこは泰葉の常識を覆す様な街だった。
 街並みが映画やドラマで見る風景と全く同じで、歩いている人々も自分とは住む世界が違うのだと思った。
 それに、見たことも無いお洒落な店ばかりで、そのガラス越しのテーブルに向かい合って座ってお互いを見つめ合ってる男女などは実際にこのような人が居るとは信じられなかった。
「こんな世界があるんだ……」
 それが正直な感想だった。それと同時に
「こんな所はわたしなどが来てはイケナイ場所だ」
 そう感じた。案内してくれたあかねは、完全にこの街に馴染んでいた。二年前は自分と同じで田舎の高校生だったのに、今では都会のOLになってるのが驚きでもあった。
 ぼおっと街並みを見つめていたら、あかねが
「大丈夫だって、泰葉もすぐ馴染むから」
 そう言って笑っていたのが印象的だった。

 駅に着いて定期券をかざして改札を通り抜ける。田舎の駅では駅員さんが切符を鋏でパンチを入れてくれたものだった。
 最初は戸惑ったものの、すぐに慣れて今では何とも思わずに使っている。代官山の街もそうやって馴染んで行くのだろうかと思う。でも自分にはあの街は似合わない感じがした。何だか人々が地に足を付けていない気がしたのだ。
 まあいい。当分は大学とアパートの二箇所を行き来するだけだと思った。そのついでに近所のスーパーやコンビニで買い物をすれば良いと思った。
 ラッシュ時を過ぎたとは言え、未だ電車は人が多い。座る事なぞ考えられない状態だった。でもこれにも既に慣れた。立って揺れる事も何とも思わなくなった。
 大学は楽しい。色々な地方から出てきた同級生と話をするのは楽しい。色々地方出身の子と話して感じるのは、田舎なら何処もそれほど変わりが無いと言う事だった。そこに妙な安心感を抱いた。
 昼になったので生協で何か買おうと向かう。学食で食べても良いが今日はいいお天気なのでキャンパスのベンチで友達と一緒に食べたかった。
 パンと飲み物を買ってレジに並んでいると、隣のレジに並んでいる男子学生と目が合った。その途端お互いに声を出していた。
「水島くん!?]
「神城さん?」
 神城と言うのは泰葉の名字だ。泰葉が「水島」と呼んだ学生は、泰葉が中学の時の三年間だけ同じクラスメイトになった男子だった。
 その頃泰葉の町では大掛かりな公共工事があり、その仕事に従事する為に家族で転校して来たのが水島だったのだ。
 泰葉の町の中学一年に転校して来たのだった。東京からの転校生と言う事で注目の的になった。
「やはり東京の子は違うわね」
「垢抜けているわね」
 そんな噂を絶えずえず耳にした。泰葉も姿形は兎も角、身のこなしや仕草などはやはち違うと思った。
 水島も明るい性格で積極的にクラスに馴染むようにしていたので、泰葉ともすぐに親しくなった。
 一緒に図書委員もした事もあるし、水島がインフルエンザで休んだ時はプリントを家まで持って行ってあげたりした。そんな行為を繰り返すうちに泰葉は水島に好意を持つようになった。だがそれだけだった。告白する勇気を遂に持てなかったのだ。それに都会の子の水島が自分の様な田舎の子に興味を持つとは、どうしても思えなかったのだ。
 だから卒業と同時に東京に帰る事になった水島に泰葉は満足な、お別れの言葉も告げる事が出来なかった。その事は泰葉にの心に未練として残っていた。それだからでは無いがとうとう高校の時は彼氏が出来なかった。幾つか告白されたのだが、どうしてもその気にはなれなかった。だから東京で、同じ大学で水島と出会った事が驚きだったのだ。この時泰葉心の片隅で「運命の出会い」があるならこんな事では無いかと考えた。

「中学以来だね。まさか神城さんがこの大学に進学してるとは思わなかったよ」
「水島くんもこの大学に進学してるなんて……」
「僕はこの大学の付属高校に進学したから、ここには通い慣れているんだ」
 二人は、キャンパスの庭のベンチに座って話をしていた。一緒にお昼を食べる友達の「頑張りなよ!」と言う変な声援を受けて水島と一緒にお昼を食べる事にしたのだった。
 水島は泰葉が想像していた以上に眩しく見えた。あの頃以上の笑顔。あの頃と変わらない気の使い方。泰葉は自分の長年の想いは氷解して行くのを感じるのだった。

オレンジ色の想い

 shopping001 ジューンブライド等と言う。だが俺たちの場合はなんだろう。四月だからエイプリルブライドだろうか、何か嘘みいたで余り良い感じはしない。
 何か無いかと調べてみた。そうしたら四月十四日に「オレンジデー」と言うものがあると知った。
 オレンジデーとは、オレンジやオレンジ色のプレゼントを贈り、愛し合う二人の愛を確認し、より高める日で、ヨーロッパではオレンジは花と実を同時につけることから愛と豊穣のシンボルとされオレンジの花は花嫁を飾る花として頭につけるコサージュに使われるらしい。
 この歳になるまでそんな日があるなんて全く知らなかった。だが俺だけではないだろう。この日本で四月十四日が「オレンジデー」と言う日になっている事を知ってる者がどれだけ居るのだろうか。そんな事を考えた。
 でも、それに便乗するのも悪くないと思った。第一妻となるべき恋人の陽子がこのような事をするのが好きそうだ。それで、言ってみた。
「なあ、どうせなら四月十四日に入籍しないか?」
「四月十四日……どうして? 別に構わないけど、理由があるなら教えて」
「四月十四日は『オレンジデー』なんだそうだ」
「『オレンジデー』なぁにそれ?」
 陽子が尋ねて来たので俺は、調べていた事を滔々と話した。そうしたら
「素敵! でもそんな日があるなんて全く知らなかった。その日にしましょうよ」
 そんな感じで、簡単に決まってしまった。
「で、お互いにオレンジ色のものを交換するんでしょ」
 そうなのだ。単にオレンジそのものを送ると言う訳には行かないらしい。
「楽しみにしてるからね」
 そんな事を言ってニコニコしている。当日は平日なので写真屋さんも空いていた。貸衣装を着て記念の写真を撮ることは決めた。俺は羽織袴に黒紋付、陽子は白打掛に綿帽子。角隠しの方が顔が写りやすいじゃ無いかと言ったら
「綿帽子を被るのが夢だったの」
 そう言われては二の句が継げない。まあ、写真はプロが撮影するのだからきちんと撮影してくれるだろうと考えた。
 問題はオレンジの色のプレゼントだ。考えた挙句、オレンジムーンストーンリングに決めた。値段も金の無い俺には適当だったし、何より色が気に入ってしまった。
 十四日までに陽子と逢った時には
「交換するプレゼントどうした?」
 そう訊かれたので
「ああ、用意したよ。それほど高額なものでは無いけどね。陽子は?」
「わたしも買ったよ。かわいい奴」
 そう言ってニコリとした。もうすぐこの笑顔も全て自分のものになると思うと心が弾んだ。
 当日仕事は休みを取ったので朝のうちに入籍を済ませ、予約していた写真屋さんに行く。着付けから化粧までテキパキとやってくれた。俺の方が早く用意出来たので、最初に一人で撮影して貰う。それが終わって待合室で待っていると。他にも撮影するカップルが居るのだろう。とても綺麗な人が女性用の支度室から案内人に手を引かれて出て来た。俺はこの時、早く陽子が出て来ないかな、と考えていて、どの花嫁の事は軽く一瞥しただけだった。
「……さん。たかしさん。隆さん!」
 その花嫁が俺の名前を呼ぶ。あれ、俺はこの人と知り合いだったっけ? そんな事を思ってしまった。
「なに、ぼんやりしているの、わたしよ。わ・た・し」
 わたしさん……私さんとでも言う名字なのだろうか?
 俺はこの時点で未だこんな事を考えていたのだ。
「もう! 陽子よ!」
 そう言われて我に返った。その美しい花嫁は我が新妻の陽子だったのだ。何んという失態だろうか、妻のことが判らないなんて……。
「ごめん。余りにも綺麗で気がつかなかった」
 花嫁の横では案内の人が笑っている。陽子は呆れた表情でいるが、釣られて笑い出した。
 そんなことがあり二人での撮影となった。まず二人で撮影して、次に花嫁だけを撮影した。俺達がやったコースの上のコースでは洋装でも撮影するのだが、俺達はそれはやらないので、これで撮影は終わった。
 街に出ると、予約していたレストランに向かった。何時もはこんな高級店は入らないのだが、今日は特別だ。何しろ今日は結婚した日なのだから。
 レストランに入って、席に案内される。向かい合わせに座って料理が出て来るのを待っている間に俺は予てから用意していた、オレンジムーンストーンリングを取り出した。
「これオレンジムーンストーンリングなんだ。貰ってくれるかな? そのうちダイヤか何かもっと高い指輪を買ってあげるよ」
 俺の本心だった。偽りの無い本心だった。
「ありがとう! 大事にするね」
  陽子の指のサイズは判っていたので指輪は陽子の指にピッタリとはまった。
「オレンジムーンストーンの意味って知ってる?
 陽子はいきなり、そんな事を尋ねて来た。
「まあ、ムーンストーンが恋人たちの石だとは買った時に教えて貰ったよ」
 陽子は俺に指にはまった指輪を見せながら
「その他にもね、縁のある男性と女性を引き寄せてくれると言われているの。またこの優しい光は相手を『思いやる心』を育んでくれると信じられてもいるの。パートナーを思いやることで、円満な関係が続くように願うお守りとしても良いのよ。つまり今日と言う日にふさわしいの」
「そうか、実はそこまでは知らなかった。ただ、見た時に直感的に感じたんだ。これは君に絶対似合うと……」
「ありがとう! 嬉しいわ。じゃ今度はわたしからね」
 そう言って陽子が出したのはネクタイピンだった。でも、それがネクタイピンと判ったのは陽子の説明を聴いてからだった。
「クマノミってしっかり家族を守って暮らすんだって。それに可愛いから隆に似合うと思って」
 家族をしっかり守って働くと言う意味かと少し考えて、思い当たった……そうか……
「今日はお父さんの命日でもあったんだな」
 陽子が静かに頷く。そうか、陽子のお父さんは陽子が高校の時に事故で亡くなったのだった。病気になった訳でもない。死ぬ寸前まで家族を守っていたのだった。だがその本意も事故で叶わなくなってしまったのだった。クマノミには陽子の想いが込められていたのだと理解した。
「俺、ちゃんとやるよ!」
「うん! 今日から改めてお願いします!」
 陽子がそう言って頭を下げた。その目には星が光っていた。

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                                                <了>

氷菓二次創作 「オレンジの花嫁」

  四月も数日が過ぎてここ神山にも遅い春がやって来た。桜もポツポツと咲き出していた。今頃からは農家にとっても重要な時期だ。それぐらいは俺でも判る。
 個人的には新学期が始まっていたが、果たして今年は入部してくれる新入生がいるだろうかと考えた。通常なら部長だって下級生に譲っているはずだったが、今日現在、古典部の部長は千反田がやっている。そんな事を考えながら古典部部室の特別棟四階の地学講義室に向かう。
 扉を開けると千反田の他に里志や伊原も揃っていた。俺が来たのでこれで古典部は全員揃ったと言う事になる。特に里志が居るのが意外だった。総務委員会の仕事があるのかと思ったからだ。
「やあホータロー。授業が終わってから随分時間が経っていたから、今日は来ないのかと思ったよ」
「ふくちゃん。きっと何時もの気まぐれよ。そうに違い無いわ」
 里志の隣で伊原が相変わらず鋭い事を言う。そう、正直に言うと今日、ここ古典部に寄ったのは気まぐれ以外の何物でもなかった。
「まあまあ摩耶花、何でも四人が揃うのは悪い事では無いよ」
 里志がそう言って伊原をなだめた。
「お前は総務委員会はいいのか?」
 先程の疑問をぶつけると
「ああ、もう三年だからね。もうすぐ役員の改選があるから、僕の副委員長もお役御免なのさ。形だけは三年生も残ってはいるけど、殆どOB扱いなんだ」
「そうなのか、もう三年生か……早かったな。この前の事だと思っていたがな」
 考えていた事が口をついて出てしまったみたいだった。
「入学したことかい? それはそうだけど、未だ早いんじゃ無いかな。少なくとも卒業の時に言う言葉だよね」
 里志の言葉を耳にして、自分の言葉が外に出ていた事を知った。
「あ、いや何でも無い」
 実は俺が思っていたのは、入学からの事ではなかった。何時もの自分の席に座る。すると、それまで黙っていた千反田が自分の荷物から何かを取り出した。見ると何やらオレンジ色の球体だった。
 千反田はそれを一つ一つ里志や伊原に手渡した。そして俺の所にやって来た。
「実はこれはオレンジの新種なんです。アメリカのバレンシアオレンジよりも甘く、何より簡単に皮が剥けるのです。試験的にウチのハウスで育てていたのですが、この春に採れたので皆さんに食べて戴いて、感想を戴けたらと思って思って来ました」
 千反田は昨年の夏に色々とあって、俺も多少それに関わったが、本題の本質は未だに解決してはいない。何より千反田の方向性が未だはっきりと決まっていないのだ。相変わらず農業関係に進みたいそうだが、今更進んでどうなると言うのが俺の正直な想いだ。
「折木さんも食べてみて下さい」
 千反田は俺の前に立つと、紙袋から二つのオレンジを机の上に並べた。
「何で俺だけ二つなんだ」
 何でも無い疑問だったが千反田は少し狼狽えて
「あ、あのお姉さんの分です。お姉さんにも食べさせてあげて下さい」
 そう言ったが、それなら里志にだって妹は居る。
 まあ兎に角食べてみないことには感想も言えないので、早速食べさせて貰う事にする。
 確かに皮はすぐに剥ける。みかんと同じぐらい簡単だ。これは評価出来る。バレンシアオレンジも良いがナイフが必要なので、みかんがあれば、そっちを選択してしまう。
 続いて房を一つ分けて口に入れる。確かに甘い。それに口の中でオレンジの香りが広がり鼻に抜けて行く。そのおかげで口の中が甘いのに爽やかさが広がるのだ。
「うん! 千反田さん。これはいいね。甘くて爽やかで、その上簡単に食べられる。僕は好きだな」
 里志が目を輝かせて感想を言うと伊原も
「うん本当に美味しい。しかも驚くほど食べやすいから、あっという間に食べてしまうわ」
 そう言って夢中で食べていた。三人の視線が俺に向かられる。俺にも何か感想を言えと里志と伊原が無言の圧力を掛け、千反田は目を輝かせて俺の感想を待っていた。
「そうだな……ほんと、食べやすくて甘いのに香りが鼻に抜けるので妙に爽やかなんだ」
「折木、妙に爽やかって言い方はおかしく無い?」
「そうか?」
「まあ、摩耶花の言う通りだね。妙にと言うのはこの場合は使うのには相応しく無いと僕も思うね」
 二人に攻撃されてしまった。横を見ると千反田が笑っている。
「でも、折木さんのその気持判ります。わたしも最初に食べた時は同じに感じました」
「ちーちゃん。折木を甘やかしては駄目よ」
 伊原の隣では里志が笑って頷いている。それを眺めながら俺は残りのオレンジを口に入れた。甘酸っぱくて切ない感触が襲う。これはこの爽やかが俺には似合わないからだろう。
「千反田。このオレンジの名前はあるのか?」
「まだ正式な名前は決まっていないそうです。いずれ発売が決まれば名前を公募すると思われます」
 そうなれば、この新種が神山で栽培されれば良いと思った。だが採算的にはどうなのだろうか。新種で珍しいとは言え、柑橘類は日本では山ほどある。しかも安価で輸入物のバレンシアオレンジやネーブルオレンジが出回っている。この新種にそれらを打ち破る力があるのだろうか? いつの間にかそんな事を考えていた。

「どうしましたか?」
 千反田の声で我に返る。気がつくと里志と伊原が帰る支度をしていた。
「ホータロー。千反田さん。今日は摩耶花の買い物に付き合うので、お先に失礼するよ」
「ちーちゃん、折木また明日ね」
 二人は手をひらひらさせて帰って行った。
 二人だけになると千反田は俺の隣に越して来て、袋からもう一つオレンジを取り出した。
「折木さんに二人あげたのは、二人だけで一緒に食べたかったからなんです」
 千反田は俺と並んでオレンジの皮を剥きだした。そして房をつまむと
「折木さん口を開けて下さい」
 いきなり、そんな事を言う。何をするかは判った。つくづく里志と伊原が帰っていて良かったと思った。仕方が無いので言われた通りに千反田に向かって口を開けると、その口にオレンジを入れた。先ほどと同じような爽やかな感触が体を抜けて行った。
「どうですか?」
 千反田は自分の分はさっさと食べてしまった。俺も房の一つぐらいは千反田に食べさせたかった。仕方ないので感想だけを言う。
「ああ、お前に食べさせて貰うと先ほどより美味しい気がするよ」
 正直に言うと千反田は喜んでから何か意味ありげな表情を浮かべて別な紙袋から何やら取り出した。
「折木さん。今日は何の日かご存知ですか?」
 突然突飛な事を言う
「今日は四月十四日だ。平凡な日常だが、それがどうした?」
 二月や三月の十四日なら特別な日なのだろうが、それでも確か千反田家では多分何も無い日なのだろう。
「今日はオレンジデーです」
「オレンジデー? そんなものがあったのか。全く知らなかった。それで、それはどのような日なんだ」
 俺が知らないと言う事は千反田には判っていたのだろう。嬉しそうな表情をした。
「オレンジやオレンジ色のプレゼントを贈り、愛し合う二人の愛を確認し、より高める日なのです。ヨーロッパではオレンジは花と実を同時につけることから愛と豊穣のシンボルとされオレンジの花は花嫁を飾る花として頭につけるコサージュに使われるのですよ。それで……」
 千反田は先程の紙袋から白い花の花束を取り出した。
「これは先程食べた新種のオレンジの花です。先程も言ったように、オレンジは実と花を同時につけるので、実を採る時に花も戴きました。折木さん。わたしは先程オレンジを折木さんに贈りました。今度はわたしのことを想ってくださるなら、この花束をわたしに贈って下さい」
 俺はこの時になって初めて千反田の真意を理解出来た。
「判った。千反田。喜んで贈らせて貰うよ」
 俺は机に置かれた花束を千反田に贈った。千反田は嬉しそうにそれを受け取ると
「オレンジの花言葉を知っていますか?」
「いいや。知らない。何か特別な意味があるのか?」
「オレンジの花の花言葉は『花嫁の喜び』です」
 そう言った千反田の嬉しそうな表情は一生忘れないだろう……。
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 あれから随分経った。今日俺は改めて最愛の人にオレンジの花束を送った。
 階段を静かに白いベールを被り白いドレスを身に纏った千反田が降りて来る。手には俺の贈ったオレンジのブーケがあった。
 そう、今日は二人の結婚式なのだ。俺と千反田は千反田の農業は継がなくても良かったが、やはり名前は出来たら千反田を名乗って欲しいと鉄吾さんに言われた。
 元よりそのつもりだったから、構わなかった。千反田奉太郎を名乗る事に抵抗はなかった。
「おまたせしました」
「ああ、でもやっとこの時が来たな」
「はい。そして本当にオレンジのブーケを贈ってくれるとは思いませんでした」
「あの時の事を覚えているかい」
「はい。はっきりと覚えています。正直、奉太郎さんは忘れていると思っていました」
「あんな大事な事を忘れはしない」
 この先、辛いこともあるだろう。涙を流すような出来事もあるに違いない。でも俺はお前の涙もろとも受け止めてやりたい。そう、喜びも悲しみも、お前のすべてを……素直にそう想った。
 そっと手を出すと千反田がそれに応える。式場の前では鉄吾さんがバージンロードを歩く準備をしていた。
『花嫁の喜び』……この言葉を改めて胸に刻む。
 いずれ水梨神社での式も行うが、どうしても俺はこの四月十四日に千反田にオレンジのブーケを贈りたかったのだった。


                    このシリーズ 終わり
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