氷菓二次創作「翼の飛び方教えてください」

 今年の神山の夏は暑いのでしょうか。それともそれほどでは無いのでしょうか?
 何も感じることが出来ずに夏休みが過ぎて行きました。さすがに家の人々もわたしの様子の変化に気が付き始めました。わたし自身はそれほど様子が変わったとは意識していなかったのですが、家の跡取りという立場が変わってしまった今、それまでとは心の持ちようが変わるのは仕方ないことだと思っています。
 それにしても考えるのはあの時の事だけです。雨の降る中バスに乗ってわたしを迎えに来てくれた人。今となっては家族以上にわたしの心情を理解してくれていてる人。 
 その人の名は折木奉太郎。神山高校の同級生で同じ古典部員であり、わたしが一番心を許せる人です。

 今日は古典部の集まりがあります。秋の文化祭で販売する文集「氷菓」の編集会議です。既にテーマは決まっていて各自が原稿を書いてるはずです。今日はその進行状況の報告です。
 テーマは神山高校と神山市の歴史についてです。神山高校の存在や卒業者が神山の街とどのように関わって来たのかを各自が自由に書くのです。わたしは、わたしの家の者で神山高校の卒業者が数名居ますが、彼らが神山とどのように関わって来たかを書くことになっています。資料は揃いましたが、どうしても書く気にならず、まだ原稿は手付かずなのです。
 折木さんや福部さん。それに摩耶花さんや大日向さんも原稿を書きます。編集は摩耶花さんが大日向さんと一緒に行い来年以降に備えます。
 古典部の部室である地学講義室の扉を開けると折木さんが一人でいつもの席に座っていました。その姿を目にして心が安らぐのを感じます。自分でも表情が緩むのを自覚します。
「こんにちは折木さん」
 声を掛けると折木さんは読んでいた本を脇に置いて振り返り
「おう千反田か。どうだ少しは落ち着いたか?」
 折木さんはわたしの状態を酷く気にしていました。その具合は家族以上と言っても良かったでしょう。
「落ち着きはしましたが、まだ先の事を考える余裕はありません」
 正直に己の心を伝えます。それが折木さんに対するわたしの誠意だと思うからです。今日こうして少し早く来たのも実は折木さんと二人だけで話がしたかったからです。多分、下校時にも話をすることは出来るでしょう。でも、誰とも会う前に折木さんと話がしたかったのです。そして恐らく折木さんは、わたしがそう思っている事を見抜いて早く来てくれると思ったからです。やはりそうでした。
「そうか仕方ないか、今になって急にだからな」
「いまさらなんです。いまさら翼をくれても飛び方が判りません」
「そうだよな」
「家を継がなくても良いと言われても、わたしはやはり千反田の娘なんです。それは変わることがありません。だから……」
「何をしても良いとは思えないか」
 やはり折木さんは判ってくれていました。嬉しくて目の奥が熱くなります。思わずハンカチで目頭を抑えます
「どうした。大丈夫か? 家の中でそんなに辛い立場なのか?」
「違うんです。この世界にたった一人だけでも自分のことを理解してくれる人が居ると思うと」
「まあ頼りないかも知らんが俺はお前の味方だからな」
 前にも言ってくれた事ですがやはり、ハッキリと言ってくれると嬉しいです。でも……。
「折木さん。これからは味方以上の存在になって欲しいと言ったら軽蔑しますか?」
「それは……」
 そこまで言いかけた時でした。教室の扉が開き
「あ、ちーちゃんもう来ていたんだ。折木も早いじゃん」
「こんにちは~ あ、お二人は早いですね」
 摩耶花さんと大日向さんが入って来ました。
「おう伊原と大日向か、里志はどうした?」
 折木さんが摩耶花さんに尋ねると
「ふくちゃんは手芸部に何か提出物があるからと寄ってから来るって」
「そうか、里志は両方だから大変だな」
「それはそうだけど、だからといって昨年みたく原稿が遅くなるのは許さないからね」
 摩耶花さんはそう言って笑っています。わたしは「許さない」という言い方が二人の信頼の深さを表していると思い少し羨ましく感じました。わたしは折木さんにあのような言葉は使えませんし折木さんも、わたしには言わないと思います。
 そんな事を考えていたら福部さんがやって来ました。
「遅れてゴメン。早速始めようか」
 その言葉で編集会議が始まりました。今年はそれぞれが順調に進んでいる事が確認出来ました。一番遅れているのがわたしのようでした。

「それじゃ、今度は二学期の前ね」
「それじゃ失礼します」
「じゃホータロー、千反田さんまたね」
 三人が手をひらひらさせて帰って行きました。また二人だけになります。少しぼおっとしていたら
「どうした?」
 眼の前に折木さんの顔がありました。思わず少し引きます。
「何でも無いのですが、さっき摩耶花さんが福部さんの原稿の事で遅れるのは許さないと言っていました」
「ああ、あいつらしいと思ったよ。昨年は大変だったからな」
「わたしは羨ましいと思いました」
「羨ましい?」
 折木さんは判らないという表情をしています。
「だって、そう思いませんか? 古くからの友人とは言え、人の前であのような言い方をするという事はどれだけ二人の絆が強いのだろうかと思いました」
 わたしの言葉を折木さんは聴いて少し考えてから
「図書室で最初に伊原に会った時の事覚えているか?」
「はい覚えています。神高ベストカップルだとかどうとか」
「いや、そうじゃなくて、里志は伊原の事なんて呼んでいた」
「摩耶花と呼んでいました」
「そう、その通り。それで判らないか?」
「何がですか」
 わたしが折木さんの真意を理解出来ていないので折木さんは説明をしてくれました。
「暑いな。窓を開けよう」
 窓を開けると夏の風が入って来てカーテンを揺らします。
「あの時、二人はまだ交際していなかった。伊原の告白を受けていたが里志はそれを拒否していたんだ」
「そうでした」
「そんな関係なら普通はどう呼ぶ?」
「ええと……伊原とか名字かあだ名かですか?」
「まあ通常はそうだろうな。言っておくが里志は俺たちとは小学校は違う。中学で二人は出会ったんだ」
「あ……」
 わたしは今まで折木さんが摩耶花さんと小学校以来の付き合いなので福部さんも同じと思っていました。
「つまり中学の三年間で、二人は心の中を慮る(おもんばかる)程の関係を築いていたと言う事なんだ」
 折木さんの言いたい事は判りました。摩耶花さんと福部さんは交際する前からお互いの心情を深く理解していた仲だったと言う事なのです。
 風の入って来る窓辺に立ちます。折木さんがそっと後ろに付いてくれます。
「わたしのお願い聞いてくれますか?」
「お願い?」
「はい。貰った翼の飛び方を一緒に考えてくれますか?」
 ここ数日思っていた事でした。わたしの一番大事な人だからお願いしたのです。
「ああ、俺で良かったら一緒に考えよう」
 折木さんはそう言って後ろからそっと抱きしめてくれました。嬉しさと恥ずかしさで体温が上がるのが判ります。でもこの状態が何時までも続けば良いと思うのでした。


                          、<了>

「バイクと恋と噺家と」第16話

 顕さんは本気ではなかったようで、わたしから離れると
「ごはん食べよう。お腹空いたね」
 そう言ってダイニングのテーブルに座った。カウンターキッチンなので隣にわたしも座る。わざと肩が触れるように椅子を近づける。上着を脱いで半袖のシャツになった顕さんの二の腕にわたしの二の腕が僅かに触れる。少しくすぐったいような感触が襲う。
 ただ腕が触れているだけなのにお互いの気持ちが伝わって来るようだ。これがもう少し強引に近づいてしまうと何かが台無しになる気がした。わたしは取皿に色々なおかずを取り分け顕さんに渡した。
「ありがとう。買って来た惣菜でもこうして食べると一味違うね」
 わたしは嬉しそうな顕さんの顔を見て、キスされて先ほどみたいに胸を弄られたいと思ってしまった。何を考えているんだろう、わたし……。
「確かにひと味ちがうかも」
 わたしも惣菜を口にして正直な感想を言う。でも頭の中はこの先起こることを想像してドキドキしているのだ。
「お風呂のスイッチ入れておいたから、沸いたら入ればいいよ。汗を流した方がスッキリするだろう」
「うん。ありがとう」
 色々な事が頭の中を巡っていたのに出た言葉はそれだけだった。段々何を食べているのか判らなくなりそうだった。わたし、怖いのかな?
 怖い訳ないよね。だって好きな人と今夜結ばれるのだから……。それって恋する乙女だったら皆が願うことでしょ? だよね。だからこの胸にある若干の不安は何なのだろう。こんなことなら翠にもっと詳しく訊いておくんだったと後悔する。
 食事が終わって後片付けをする。テーブルを片して綺麗に拭いて、洗い物を洗う。わたしが洗って顕さんが拭いてしまう役だった。
「怖い?」
「え」
「さっきから心ここに非ずという感じだからね。話ににも生返事が多くてさ」
 わたし、そんな感じだったんだ。言われないと判らなかった。
「ごめん。そんなつもりじゃ無かったんだけど」
「別にそれは良いんだ。でもそんなに里菜を不安にさせているなら俺の責任だと思ってね」
 顕さんはわたしの方を見ながら少し微笑んだ。その表情を見て顕さんも緊張してるのだと思った。
「実は俺も不安なんだ」
「え?」
「里菜に嫌われたらどうしようと思ってね」
「わたしから顕さんを嫌いになる訳がないじゃない」
「判らないよ。俺が強引なことしたりして」
「それだけは無いとわたしは思う」
「どうして?」
「判るんだ。顕さんはそんな強引なことはしないって」
 そう、今なら判る。顕さんは人の嫌がるような事を強引にはしない人だと。
 食器は綺麗に片付いた。流しの回りを拭いて磨き上げる。
「綺麗になった。これならおばあちゃんも喜ぶだろう。歳を取ると細かい所まで見えなくなってるから、磨き落としがあるんだ」
 そうなのか。わたしは年寄りと一緒に暮らしたことが無いから、そんな事は判らなかった。
「お腹がこなれるまでテレビでも見ようか」
 顕さんはそう言ってくれたけど、それなら顕さんの部屋にあった落語が聴きたいと思った。
「落語を聴きたいな。部屋にあったやつ」
「ああ、俺のじゃなくてね」
「駄目?」
「構わないよ。何がいい?」
「見て決めたい」
 一緒に部屋まで行って、わたしは棚を眺めていた。
「これがいいな」
 わたしが手にしたのは古琴亭志ん夕という人の「宮戸川」という噺だった。
「大師匠のだな。知っていた?」
「ううん。知らなかった。亭号が同じだから関係はあるかなとは思ったけど」
 どうやら、顕さんこと古琴亭小鮒さんの師匠の師匠らしかった。後で知ったのだがミスター落語とまで言われた人だったそうだ。でも六十三歳でガンで亡くなってしまったそうだ。勿論顕さんが今の師匠に入門する前の事だ。
 顕さんはわたしが選んだCDをプレーヤーに掛けてくれた。出囃子とともに再生が始まった。顕さんのベッドに座って噺を聴く。
「え〜男女の縁というものは実に不思議なものでして……」
 マクラが始まる。なんと言うか噺を始めただけでその場の空気がパーッと明るくなった気がした。
「凄い! この人凄い!」
 思わず口に出してしまうと顕さんが
「やはり判るんだね。そうなんだ。凄いんだ」
 この噺は……将棋で帰りが遅くなって締め出しを食った小網町の半七は、霊岸島の叔父さんのところに泊めて貰おうと思っていると、向かいのお花もカルタで遅くなり同じように閉め出されてしまいます。お花は叔父さんの所に一晩泊めて貰えないかと頼むのですが、半七は早合点の叔父さんだから嫌だと断ります。お花から離れようと駆けだしていると、お花の方が速く、脇を走って追い越して、一緒に叔父さんの所に着きます。
 飲み込みの良すぎる叔父さんは、案の定お花と半七をいい仲と勘違いして、二階に上げてしまいます。
 しかたなく背中合わせで寝ることにしましたが、背中を向け合っていたのですが、折からの激しい落雷が近くに落ちたので、驚いてお花はが半七に抱きつきます。真っ赤な緋縮緬の長襦袢から伸びるお花の真っ白な脚。それを見た半七は思わず……この先は本が破れて判りませんでしたと下げていた。
「面白かった」
 わたしの感想を聞きながら顕さんはCDをしまうと、わたしの隣に座り直り抱き締めて口づけをした。わたしはからだの力が抜けてしまい、もう何も出来なかった。
「わたしお風呂入ってないから汚いよ」
 出来ればシャワーでも浴びて綺麗な体でしたかった。
「二人の間には汚いものなんて無いんだよ。気にしなくても良いよ。里菜の匂も何も全てが今日は俺のものだから」
「ホント?」
「ああ、嘘なんか言ってどうするのさ」
 着ているものを脱がされてお互いに一糸まとわぬ体になった。
「すごく綺麗だよ」
 顕さんがそう言ってくれた。それが嘘やお世辞では無い事がわたしには理解出来た。顕さんんで良かったと思った。
 その夕、わたしと顕さんは身も心も一つになった。痛かったけど、それを上回る幸福感がわたしを包んでいた。幸せだと思った。
 その後一緒にお風呂に入った。さっき「二人では入れない」と言っていたが、それは湯船のことだった。流し場は二人で入れる広さだった。さっきはベッドの上では裸を見られても恥ずかしくなかったが、今は顕さんの目の前で裸を晒すのが、何故か少し恥ずかしく感じてしまった。
 お風呂から上がって冷たいものを口にする。隣には最愛の人が居てくれる。こんな幸福感は今まで感じたことが無かった。その後、顕さんのベッドで腕枕をされて眠りに着いた。ドキドキして中々寝付かれないわたしの瞼に顕さんが軽くキスをしてくれた。安心感を感じて、そうしたらいつの間にか眠りについていた。

「バイクと恋と噺家と」第15話

 向島というのは東京の東にある街で江戸時代は別荘が沢山あったという。顕さんが教えてくれた。落語にも良く登場する所だそうだ。
 上野から銀座線で浅草まで行き東武線に乗り換える。この辺りになると私は全く土地勘が無いので顕さんの手を離さないようにする。浅草駅は渋谷や新宿ほどでは無いが結構人が多かった。
「大丈夫だよ。そんなに強く握らなくても」
 顕さんに言われて自分が緊張してるのが判った。恥ずかしくて頬が赤くなる。東武電車に乗り「東向島」という駅で降りた。
「この駅は以前は『玉ノ井』という名前だったんだ。聞いたこと無いかな『赤線玉ノ井』って」
 正直なところ知らなかった。
「この辺りは昔は赤線地帯でね」
「赤線というと売春の?」
「そう。だから街の名前も駅の名前も変わったんだ。何れ人々の記憶からも消える」
 わたしは、その言葉に少し悲しみを感じた。
「もしかして、顕さんの家系ってこの辺りの生まれなの?」
「母方がね。おばあちゃんは母方なんだ」
「だから噺家になったのも下町の血」
「そうじゃないけど、影響はあるかな」
 改札を抜けると駅前は狭い道が交差していた。右に歩くとすぐに広い道路に出た
「国道六号線、水戸街道だよ」
 物凄く車の量が多い。わたしは自分がこの道をバイクで走る姿を想像する。これだけ車が多いと余り快適には走れないと感じた。それでも多くのバイクが車の間を練って走っていた。車から離れて走るのが大切というのは都会も田舎も変わりないと思った。
 広い道を横断すると消防署がありその前を横切って歩いて行く。
「ここを入るんだ」
 顕さんは中華料理屋さんの脇を曲がった。わたしも続く。広い道路から一本入ったばかりなのに、もう世界が違った感じがした。狭い路地にくっつくように家が立ち並んでいる。家の前には植物が植わった鉢が並べられていて、写真で見る東京の下町の風景がそこに広がっていた。
「驚いたかい」
 顕さんは半分笑いながらわたしに問う
「少し。道一本で全く感じが違うから驚いた」
「そうだろう。これが下町なのさ」
 正直、何が下町かは良く判らなかったが、わたしは初めての街を興味深く観察していた。ここに顕さんのルーツがあるなら、それも知っておきたかったからだ。
 顕さんはさらに路地を二回曲がった。正直、後で一人で帰れと言われても帰れる自信は無くなった。
「この家だよ」
 顕さんは突き当りの家の前で止まった。小さいが格子戸の玄関の洒落た家だった。郵便を確認して鍵を開け、格子戸を開いた。
「さ、入って」
 顕さんは半身だけ入ってわたしを招き入れた。玄関は黒い御影石みたいなタイルが敷き詰められていてオシャレな感じがした。
「おじいさんが亡くなった後、相続の関係で母親の名義になったんだ。それを期にリフォームしてね」
 相続のことは良く判らないが確か顕さんのお母さんにはお姉さんが居たはずだった。
「兄弟で分けたんだね」
「俺もそれほど詳しくないけど、大した財産も無いからね。おばさんには子供が居ないから、ここを母親が相続したのもそんなことが理由だったかも知れない」
 要は姉妹と配偶者で相続したのだろうが、一件しかない家が顕さんのお母さんの名義になった事情のことを言った。
「おじゃまします」
「さあ入って」
 上がり口が一段上がっていて、御影石の上に平べったい敷石が置いてあった。その上に乗り靴を脱ぐ。
「この辺は水害が多かったから家に上がるにも一段高くなってるんだ。こうしておけば床下浸水で済むからね」
 学校で習った気がする確か「江東ゼロメートル地帯」って
 上がり口は畳二畳ほどの広さで障子が嵌められていた。それを開くと家の中が見えた。わたしは息を呑んでしまった。障子を開けた先は近代的な模様だったからだ。
 ダイニングキッチンって言うのかな? 対面式のキッチンとダイニングが一体となった空間だった。
「こっちだよ」
 顕さんに手を引かれて左に行くとそこはリビングだった。低いソファーが置いてありガラスのテーブルがありテレビも置かれていた。
「この先はバストイレだよ。この部屋の横に二階に上がる階段があるんだ。上は八畳と六畳で俺は六畳を使わせて貰っているんだ」
 そうか顕さんの部屋は二階なのかと思った。正直ちょっと覗いてみたい気がした。
「見たいな」
「え、見たいの?」
 確か実家の方だって顕さんの部屋は見ていなかった。少しおかしいだろうか?
「こっちだよ」
 顕さんは手招きをしながら脇の階段を登って行った。わたしも後に続く。上がり切った左の部屋がどうやら顕さんの部屋みたいだ。扉に手を掛けて静かに引くと部屋の中が少し見えた。
「さあ入って、良く見て欲しいね」
 部屋に入らせて貰う。顕さんがカーテンを引き、灯りを点けてくれた。部屋には着物が掛かっていてノートPCが机の上に置かれていた。机の棚には落語関係の本とCDやDVDが並べられていた。変わっていたのは和箪笥が置かれてあった事だ。
「着物を置いてあるんだ。それと襦袢や帯に足袋もね」
 そこまで見てわたしは、この部屋が落語家、古琴亭小鮒のベース基地になってるのだと理解した。
「この部屋に他人を入れたのは初めてだよ」
 その言葉の意味を考えていると抱きしめられた。お互いに唇を求め合った。その後、顕さんは今日着た着物を干して、干してあった着物を丁寧に畳んで箪笥にしまった。
「一旦着た着物は干してからしまうんだ」
 顕さんこと小鮒さんはそう言って着物をしまうと、わたしに
「何か買って来よう。ついでに近所を案内するから」
 そう言って下に降りて行った。正直、わたしはキスの続きがあるかもと思ってしまった。考えすぎなのかも知れない。

 結局近所のスーパーで惣菜を買って来た。お金は顕さんが出してくれた。でも、こうして夕方に一緒に買い物をして手を繋いで歩くのも悪くないと思った。翠が卒業したら一緒に住むというのも何か判る気がした。
 帰って来て台所で買って来たものをお皿に並べていると、顕さんが後ろから脇の下に手を入れて、わたしを後ろから抱きしめてきた。手はしっかりとわたしの胸を触ってる。
「あ、エッチ! 胸触った!」
「良い感触だったよ」
「わたしそれほど大きくないから」
「そうでも無かったよ。これだけあれば」
 男の人に胸を触られたのは生まれて初めてだった。でも今は正直嬉しい。なんでだろう。
「さご飯食べて、お風呂入って」
 お風呂に入る……まさか二人で入るのだろうか?
「二人で入れるの?」
「まさか、それほど広くない」
 それを聴いて少し安心した。明るいところで裸を見られるのは恥ずかしかったからだ。

「バイクと恋と噺家と」第14話

 高座にはテレビでも良く出る噺家さんが出ていた。わたしの後ろの席に座った常連さんと思われる人の言葉が聞こえて来た。
「この後収録があるから出番替わって貰ったそうだよ」
 そんな会話が聞こえて来た。入る時に貰ったパンフレットの紙には、もっと遅い出番となっていた。ちなみにこの遅い出番のことを、小鮒さんは「深い」と言う。つまり「深い出番」となる。
 先ほども別れる時に
「今はまだまだだけど、そのうちもっと深い出番になれるように頑張るよ」
 そう言っていた。わたしとしては顕さんが小鮒として売れるのは勿論嬉しい。でもあんまり売れると逢う時間が少なくなるのではとも思い、自分でも呆れる。それは未だ先のことだろうし、その頃は二人の関係ももっと深くなっているだろうと想像した。
 六人ほどの噺家さんと漫才やマジックの人の高座を見終わって時間を確認すると二時を少し過ぎていた。寄席の外に出ると初夏の太陽の強い日差しをモロに感じて慌てて日陰に入る。スマホで地図を出して確認すると神田にある連雀亭は神田駅よりも秋葉原駅に近いようだ。田原町まで歩いて銀座線で末広町か神田で降りて歩いても良いが、寄席の裏には、つくばエクスプレスの浅草駅がある。これに乗れば秋葉原はすぐだ。運賃が少し高いがこの強い日差しの中を歩くなら少しの出費は惜しくないと思った。
 寄席の脇の道路に駅の入口がある階段を降りるとエスカレーターがあった。それに乗って降りて行く。この路線が地下の深い所を走っているのは知っていたがそれにしても深いと思った。数回エスカレーターを乗り換えて改札まで降りて来た。ここで切符を買って改札を通って更にホームまで降りて行く。
 十分ほど待つと秋葉原行きがやって来た。ここの駅はホームドアがあるので線路に落ちる心配がないのが良いと思った。乗って電車が走り出すと開いてる席に座る。めを瞑ると先ほどの事が思い出される。楽屋口で言われた言葉……。
『俺は本気だ』
『今夜は帰したくない』
 それがどのような意味を持つかは十二分に理解してるつもりだ。心の準備は出来ている。でも、そういうのは自然な流れでなるものだと思っていたから一気に体温が上がってしまった。小鮒さんも、きっと明日から楽屋で色々と言われるかも知れない。でも、冷やかされるのも悪くは無いと思えて来た。それが話題になって仲間内でも小鮒さんが話題になれば何かに繋がるかも知れないと考えたからだ。
 電車は仲御徒町を発車した。次が秋葉原だ。地下の空間を電車は結構なスピードで走って行く。もう心は決めていた。でも家にはなんて言おうかと考えた。それに今夜は何処に行くのだろう。何処かに泊まるのだろうか? 顕さんにそんなお金を使わせるのは何か違うと思った。
 結局同じ考えが頭の中をぐるぐる回っただけだった。電車が秋葉原に到着した。ぞろぞろと皆出口に向かう。また、幾つものエスカレータを登って地上に出る。エレベーターに乗っても良いのだけど、秋葉原の何処に出るのか判らないので止めた。
 秋葉原の駅を出て中央通りに向かう。万世橋を渡ると通りを横断して神田に向かって右の方向に歩いて行く。何か電子部品を売っているお店の角を右に曲がり脇道に入る。この道をまっすぐ行くと。大晦日にテレビで出る「まつや」がある。その脇を更に右に曲がると左手に連雀亭はある。
 歩いていたらスマホが鳴った。顕さんだった。
「もしもし、今終わって表に出たところなんだ。今どこ?」
「今『まつや』さんの前に差し掛かるところ」
「じゃあそこで待っていて。お昼まだだろう、蕎麦でも食べようよ」
「うん判った。ここで待ってる」
 そう言って通話を切ってから間もなく顕さんがカバンを肩から下げて歩いて来た。さっき逢ったばかりなのに何故かドキドキする。
「入ろうか」
 黙って頷いて顕さんの後に続く。
「良かった。丁度お昼の混雑時が終わったみたいだ」
 お店独特の声に出迎えられて、案内された席に着く。
「何が食べたい。暖かいのが良い。それとも冷たいのが良い?」
 きっと顕さんは何回も来ているのだろう。余裕が感じられる。わたしはお店の独特な雰囲気に押され気味だった
「暖かいのが良いかな」
「じゃあ天南ばん、なんかどう。小エビのかき揚げが入っている蕎麦だよ」
 顕さんの説明で映像が頭に浮かんだ
「それがいい」
「俺は大もりにしようかな。少し冷たいのも食べて見た方が良いよ」
 そう言ってメニューを置いて
「すいません。天南ばんと大もりで」
「はいありがとうございます」
 そう言って店員さんが下がって行く。それを目で追いながら顕さんは
「食べ終わったら何処に行こうか」
 そんなことを尋ねて来るので
「どこでもいいよ。わたし、それほど東京に詳しく無いから」
「そうか、じゃあ上野にでも出ようか。公園を散歩しても良いし美術館なんかもあるしね」
「わたし、それほどお金持って来ていないかも」
 美術館といえば数千円はする。帰りの電車賃が心配になった。そこまで想いが及んで先ほどの顕さんの「今夜は帰さない」という言葉が蘇って来た。
「そんな心配しなくても良いよ」
 何故か顕さんは余裕で笑っている。そんなことを考えていたら、注文したお蕎麦が運ばれてきた。顕さんは「大もり」でわたしが「天南ばん」だ。
 良く落語でもお蕎麦を食べるシーンがある。今日もそんな噺が出た。噺家さんは扇子と手つきだけでまるで本物の蕎麦を食べるように仕草をする。あれも練習するのだろう。
「蕎麦の食べ方だけどね。こうやって箸で摘んだ蕎麦を三分の一から半分ぐらい汁に漬けて一気にすするのさ。まあ、手繰ると言うのだけどね。どっぷりと汁に漬けては駄目なんだよ。そうすると折角の蕎麦の香りが消えてしまうからね」
 顕さんはそう言って実際に食べて見せた。わたしはそれを見て、本当に美味しそうに食べるのだと関心してしまった。途中で蕎麦を交換して、わたしも蕎麦を手繰ってみた。何だか少しだけほんの少しだけ顕さんの世界に入り込めた気がした。
 食べ終わって二人で歩いて行く。地下鉄に乗っても上野には直ぐに着く。歩いてもそれほど離れていない。
「歩くのが嫌でなかったら、少し歩こうか」
「うん。それがいいな。話も出来るし」
 中央通りを上野に向かって歩いて行く。わたしはここをバイクで走る事を想像する。
「ねえ、噺家さんって色々な都内の寄席を回る事ってあるの?」
「ああ、あるよ。お正月なんかは皆忙しいから数件は回るよ」
「そんな時にバイクで回る人っていなかったのかな?」
 わたしが顕さんと交際するようになってから訊いて見たかった事だった。
「いたよ。今でも居るよ。一番有名なのは人間国宝になった柳家小三治師匠なんかはバイクに夢中になった時はナナハンで寄席を回っていたそうだよ」
「わあカッコいい! どうして辞めちゃったの?」
「病気の為にバイクに乗れなくなったそうだ」
「病気……」
「リューマチだそうだ。指の関節が動き難くなったのでバイクの運転を諦めたそうだよ」
 そうか、指が動かないとバイクは操縦出来ない。わたしも将来リューマチになったらバイクは諦めなければ駄目だろうか? そんな事が頭を過ぎった。
 顕さんは途中、駅のコインロッカーにバッグを預けて上野の山に登った。そしてわたしに
「今日から五日間は寄席と連雀亭があるからおばあちゃんに家に泊めて貰う事になっているんだ」
 え、そんなことになっていたとは知らなかった。わたしは東京なら何処かで泊まるものとは思っていたけど、親戚の家とは予想外だった。
「まあ、おばあちゃんの家って言うけど、実際は俺の別宅でね。おばあちゃんは良く旅行に行ったりして留守が多いから、俺が東京で仕事がある時に泊まり込んで管理してるんだ。前座の頃はバイクで通ったりしていたんだ」
「そこは何処なの?」
「墨田区の向島というところさ。下町だよ。そこからなら師匠の家も三十分ぐらいだし、寄席に通うにも都合が良いからね」
「じゃあ今日は、おばあちゃんは留守なの?」
「そう、海外旅行に行ってるんだ」
「でも何で最初に言ってくれなかったの? わたしはずっと実家から通ってるのだと思っていた」
「実家から通っていたのも事実だよ。おばあちゃんが居る時は、基本実家に帰ることにしていたから。居ない時に使わさせて貰っていたんだよ」
 それで色々な謎が氷解した。上野の山や忍ばずの池で色々なものを見て、お茶にした。
 喫茶店で並んで座りながら、もう一つの心配ごとを口にしてみる
「わたし今日は家に帰ることになっているんだ。母にどう言えば良いかな」
 そうすると顕さんは
「電話する時に俺を出してよ。ちゃんと言うから」
「なんて」
「真剣な交際ですって」
 わたしは真剣な交際なら高校生を都内の何処かに泊まらせても良いのかと思ったけど、翠はもう、こんな事はとっくに乗り越えてしまってると思い口にするのは止めた。
 お茶をしながら時間を見て母に連絡する。こういう時は家の電話では無く母の携帯に掛ける
「あ、おかあさん。今日は顕さんと逢ってるんだけど。今夜は向島にある顕さんのおばあちゃんの家に泊まらせて貰おうかと思っているんだけど」
「え、泊まって来るの? じゃあご飯要らないわね」
「うん……いいの?」
「良いも何もあんた泊まるんでしょ彼と」
 母はお見通しだった。その様子を見て顕さんが電話を代わった。
「結城です。今日は里菜さんを東京の親戚の家に泊まって貰おうかと思っているのですけど。宜しいでしょうか……はい、それは真剣です。決して遊びではありません。将来のことも考えています……はい、ありがとうございます」
 顕さんがスマホをわたしに渡してくれながらニコッとした
「もしもし」
「あんたちゃんと用意してあるの?」
「うん。それは大丈夫」
「じゃ何も言わないわ。じゃあね」
 母はそう言って電話を切った。わたしは恥ずかしくて、顕さんに抱きついた。実は予想はしていたので用意はしてあったのだ。
 その後、何処かで夕食を食べるより何か買って、おばあちゃんの家で二人だけで食事をすることに決めた。そうすれば他人の目は気にならない。
 少しずつ胸の高鳴りが高まって行くのを感じていた。

「バイクと恋と噺家と」第13話

 日曜日は顕さん達噺家にとって需要な日だ。それは本業の落語の仕事が入るし、また余興の仕事が入ることもあるからだ。でも今日から隔日だけど浅草の寄席に出るのだ。今日から十日間のうち交代で馬富さんと交互にで出るのだ。小鮒さんは、今日が日曜だから出るのは、日、火、木、土、月となる。本当は初日に行きたかったのだが、用事があって行けなかった。昼席なので学校のある平日は行くことが出来ない。すると今度の土曜しか行ける日はなかった。勿論、翠も行くはず。今までなら一緒に行くはずだが今回ばかりは一緒という訳には行かない。なぜなら小鮒さんが出る時は馬富さんは休みで、馬富さんが出る日は小鮒さんが休みだからだ。
「里菜とは今回は一緒に行けないね」
 翠はそんなことを嬉しそうな顔をしてわたしに言う
「嬉しそうだね」
「そりゃそうよ。好きな人が高座に出るんだもの。それも言わば公式の高座だからね」
「公式の高座?」
「うん、自分たちでやる会は言わば私的な高座でしょう?」
 確かにそうだが
「それに比べて寄席というのは協会や寄席のお席亭から出演依頼されて出るんだもの、言わば格が違うと思うの。寄席で評判が良ければ、あちこちから声がかかるでしょう。そうすれば次第に売れて行くと思うのよね」
 確かに、それは理屈だけど。今からそんな事まで考えている翠にわたしは少し驚いた。それに楽語界の事まで良く知っている。
「なにかまるで奥さんみたいね」
 わたしとしては半分冗談。半分からかいで言ったのだが
「そうよ。だって来春になったら一緒に住むんだから」
 教室の窓から外を見ながら毅然として言うのだ
「それって、あんたの願望でしょう?」
「そんなわけないじゃ無い。約束してるもん」
「え、馬富さんが一緒に住もうって言ったの?」
「そうよ」
 そう言った翠は本当に嬉しそうだった。聞けば、この所、毎週金曜になると馬富さんのアパートに行き色々と世話をして日曜の夜に帰って来る生活をしてるそうだ。それって週末妻じゃん。そう思った。翠ってこんなに情熱的だったかしら? どちらかと言うと恋愛には冷静な方で、今まででも告白された事は多いけど、ちゃんと付き合った事は数えるほどだったはず。それも噂では身持ちが堅いと言われていた。だから今回みたく翠の方が前のめりになっているのが正直信じられなかった。
「わたしは土曜に行くから翠は金曜には間に合わないから日曜だね」
「うん。土曜は賢ちゃんは連雀亭の夜席に出るからね」
 それから翠は馬富さんのスケジュールをわたしに語ってくれた。それによるとなんだかんだで、ほぼ毎日何かしらの仕事が入っているらしい。顕さんとは違う。噺家小鮒はそれほど毎日仕事が入っている訳ではない。先日の土曜はわたしのために仕事をオフにしてくれたのだろうけど、翠から話を聞いて少し複雑だった。
 そこまで会話した時に午後の始業のチャイムが鳴って翠が
「じゃ後でね」
 そう言って自分の席に戻って行った。
 翠の話を聴くまで正直、土曜に寄席が終わったら、東京でデートしたりと考えていた。顕さんは寄席以外の仕事の事は言ってなかったけど、入っていないのかしら? 翠は馬富さんのことを真剣に考えているのに、わたしは顕さんの家族に紹介されたことで舞い上がっていた。訊いたら翠はお互いの家族に紹介済みで卒業したら一緒に住むことも承諾してると言う。この時わたしの頭に古い言葉だが「契り」と言う言葉が浮かんだ。そうなのだ翠と馬富さんは契を結んでいたのだ。わたしと顕さんはそこまで行っていない。単に形式的なことだけとも言えなくも無いが時間の問題とは思うがそこまで行っていないのも事実だ。色々と考えていたら授業が終わっていた。

 土曜日、わたしは朝早く東京に向かう電車に乗っていた。急行だからそう時間はかからない。終点のターミナルで地下鉄に乗り換える。途中で銀座線に乗り換えて浅草に向かう。顕さんから
「終点の浅草だと歩くから、ひとつ前の田原町で降りるといいよ」
 そう聞いていたので田原町で降りて地上に出た。いい天気で青空が広がっていた。こんな日にツーリングに行ったら、さぞ気持ち良いだろうと思った。風が心地よい。でも、もうすぐこの風も湿って梅雨になるのだ。
 グーグルマップで調べていたので浅草の寄席の場所は判っていた。昼の部は朝の十一時半には始まるそうだ。その前に前座さんが練習代わりに高座に上がるので実際はそれより早いそうだ。
「平日なんか並んでいるよ」
 顕さんにそう教わったので少し早めに着いた。今日は並んではいなかった。切符売り場で入場券を買う大人は二千八百円だが高校生なので二千三百円で済んだ。窓口には猫が出迎えてくれた。顕さんが
「浅草演芸ホールのテケツにはジロリって言うサバトラの猫が居るんだ。可愛い奴でね。もし切符を買う時にジロリに出会えたら良い事があると言われているんだ」
「テケツって?」
「切符を売る窓口のことさ」
 そう言っていたのを思い出した。そうか今日はラッキーな日になると単純に喜んだ。
「あら可愛い」
「ジロリって言うんですよ」
 窓口のお姉さんが教えてくれた。
 場内に入ると寄席は思ったより広くはなかった。二階席もあったが一階に入った。半分ぐらい埋まっていて、わたしは真ん中より少し前に席を取った。
 「平日だと前座が話してると招待券のお客さんがガヤガヤ入って来るんだよね。でも土日はそれが無いから前座は土日に上がるのを希望する奴が多くてね。調整が大変だったよ」
 ふたつ目になる前、顕さんは立前座と呼ばれる前座でも一番上の立場だったそうだ。この立前座は寄席の運行管理を担っているので、大師匠と言えども立前座の人に言わないと出る順番を変わって貰うことも出来ないそうだ。それに時間が押してるとそれぞれの出演者に「短めに」とか「長めに」とか言って時間の調整をするのだそう。何か色々大変だと思う。その他に師匠方にお茶を出したり、着替えを手伝ったり、着物を畳んだり、雑用をしたり、それらが全て落語の為になるのだそうだ。聴けば聴くほど噺家の世界って大変だと思う。
 やがて出囃子が鳴って前座さんが出て来た。どうやら「たらちね」という噺らしい。これは長屋の独り者の八五郎の所にお嫁さんが来るのだけど、この人の言葉遣いが特別丁寧過ぎるので色々とトンチンカンな事が起きるという噺だ。顕さんと付き合うことになってから、わたしも落語を聴いたりしている。
 前座さんがパラパラとした拍手を貰って高座を降りると顕さん、いや小鮒さんの出囃子が流れた。小鮒さんの出囃子は「外記猿 」(げきざる)という出囃子で緊張感があるので個人的には小鮒さんに合っていると思う。
 小鮒さんは青い着物姿で扇子を右手に持って出て来た。わたしが来てる事は知ってるので目が合った。本当は楽屋を訪れれば良かったのだが、出番が早いので終わってからの方が良いと思ったのだ。
「え〜ようこそのお運びで御礼申し上げます。この度ふたつ目昇進となりまして、寄席に出ることになりまして古琴亭小鮒と申します。どうぞ宜しくお願い致します。顔と名前を覚えて帰って頂けければ幸いです」
 湧き上がる拍手を貰い、小鮒さんは噺に入って行った。どうやら今日は「かぼちゃ屋」という与太郎が出て来る噺みたいだ。
 与太郎がかぼちゃを売ることになり町内を売り歩くのだが、ドジばかり。あげくは卸値で売ってしまい叔父さんに怒られる始末。もう一度売って来いと言われて再び売り歩くが売れないので先程の場所に行くと、さっき買ってくれた男が居るので、また買ってくれと言うが今度は値段が高い
「なんで高いんだ」
「さっきのは元値で今度は上を見てるから」
「なんで上を見てるんだ?」
「上を見ねえと女房子供が養えねえ」
 と下げる噺で小鮒さんは上手く纏めて高座を降りた。わたしは客席の横にある楽屋入り口の所で、小鮒さんが出て来るのを待っていた。
 十分ほど待っただろうか、小鮒さんが楽屋から出て来た。手には着物が入ったカバンを持っている。
「お疲れ様」
 わたしが声を掛けると小鮒さんは顕さんの顔になり
「ありがとう。高座に上がったら目の前に居たので驚いたよ。楽屋で『今日は可愛い子が居る』って評判になっててね。余りにも愉快と言うか可笑しいので言っちゃった」
「なんて?」
「俺の彼女だって」
 その時楽屋から数人の人がこちらを見ているのに気がついた。慌てて会釈をする
「いいなぁ〜兄さん。物凄く可愛いじゃん」
 先程高座に上がった前座さんだった。
「いいだろう」
 そう言った顕さんの表情は今までで一番嬉しそうだった。わたしは今まで可愛いなんて言われたことが無かったのでドキドキが収まらなくて顕さんの陰に隠れてしまった。
 顕さんはわたしの肩を優しく抱いて
「今日は、この後二時から連雀亭なんだ。どうする? 一緒に来る。それとも二時まで見てて地下鉄に乗れば神田まですぐだからね。十分とかからないよ。連雀亭の前で待ち合わせしても良いし」
 確かに二千三百円払ったのに未だ前座さんと小鮒さんしか見ていない。それで出てしまうのは勿体無いと考えた。恐らく翠なら迷うことなく一緒に行くのだろうと思った。
「じゃあ二時まで見てる。時間になったら出るから終わったら連絡して」
「判った。そうする。じっくり寄席を見ておいた方が良いよ」
「うん。顕さんの職場だものね」
 わたしのその言葉の意味が判ったのか、顕さんはわたしの耳元で小さく
「今日は家に帰したくないな」
 その言葉に収まりかけてた胸の高まりが又強くなった。
「俺は遊びなんかじゃないよ。本気なんだ」
 思わず顕さんの胸に顔を埋める。楽屋から誰が見ていようが構わなかっ
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