氷菓二次創作「奉太郎の決意~その後」

 唇が離れると千反田が潤んだ瞳で俺の胸に飛び込んで来た。そっと背中に手を回し抱きしめる。
「折木さん、もっと強く抱きしめて下さい」
「ああ」
 千反田の甘い香りが二人を包み込んだ。周りに人が居るかも知れなかったが目に入らなかった。
「本当に俺の家に来るか?」
「はい。出来れば」
 ならば何も言うことは無い。千反田と並んで歩き出すと千反田が俺の腕に自分の腕を絡めて来た。横を向いて千反田の表情を見ると嬉しそうに微笑んだ。
「ウチに来れば取り敢えずおせちはあるからな。それに雑煮ぐらいは出せる」
「大丈夫です。お昼は食べて来ました。朝が早いのでお昼も早かったのです」
「そうか千反田家ともなれば新年の行事が色々とあるのだろうな」
「そうですね。若水を汲んで供えたりしますが特別な事はしません」
 千反田は気が付いていないだろうが、当たり前と思ってる事の殆どは普通の家では行わない事だと思う。
「でも元旦からこうやって折木さんと二人だけになれるなんて」
 よく考えると、新年早々千反田とデートをしてる事になる。昨年も初詣に行ったので実感が湧かないが、これは立派なデートだ。それにキスもしたし、抱き合うなんて事もした。何処からどう見ても恋人同士に見えるのだろうな。そんな事まで考えてしまう。そんな事を思っていたら千反田が
「先のことは判りませんが今は、もう少し折木さんと特別な関係でいたいです」
「特別な関係か」
「はい。わたしにとって折木さんは特別な人ですから」
 嬉しいような、こそばゆいような感じだ。
 そんな会話をして我が家に到着した。
「ただいま~」
 玄関を開けると奥から姉貴の声が聞こえた
「あら奉太郎? 早いじゃないの。さては、えるちゃんに嫌われた?」
「違う! 千反田を連れて来たんだ」
 その声が終わると同時ぐらいに姉貴が自分の部屋から飛び出して来た。
「あらいらっしゃい。初めまして奉太郎の姉の供恵です」
 姉貴が自己紹介をすると
「千反田えると申します。正式には初めてお会いしますね。宜しくお願いします」
 千反田がそう言って頭を下げた
「さあ上がって。 奉太郎にしては上出来だわ」
 姉貴は俺の事は眼中に無いらしく千反田の手を取って居間に向かった。居間では親父が出かける支度をしていた。
「お父さん。奉太郎の彼女の千反田えるちゃんよ」
 姉貴よ彼女は未だ早いと思うぞ。でも早くないのか?
「これはこれは、いらっしゃい。奉太郎の父です」
 親父が自己紹介をすると千反田も
「千反田えると申します。今日は厚かましくもお邪魔してしまいました」
「いえいえ何の、どうぞゆっくりして行って下さい。生憎わたしは新年の挨拶に出かける所ですが」
 毎年親父は元旦は午後から挨拶回りに出かける。今までだと姉貴は国外に旅行に出掛けているので正月の元旦は俺一人の事が多いのだ。だからこその、やどかりの生体模倣なのだが。
「それじゃ出掛けて来る」
 親父の言葉に姉貴が近寄ってネクタイの曲がりを修正し
「行ってらっしゃい。余り出先で飲みすぎちゃ駄目よ。怪しくなったら連絡するのよ。迎えに行くから」
 そう言って送り出した。
「行っちゃった。えるちゃんお腹は空いてない?」
「はい大丈夫です」
「そうか。ならお茶でも入れようかしらね」
 姉貴はそう言って冷蔵庫からレアチーズケーキを小皿に載せて出してきた。姉貴は千反田の着物を眺めて
「良く似合ってるわ。ホント綺麗。でも、万が一という事もあるから着替えた方が良いも。わたしの服で良いなら丁度良いのがあるから」
 不安そううな顔をした千反田に姉貴は
「大丈夫。帰る時に着付けしてあげるから。えるちゃんもある程度出来るんでしょう」
「はい。でも他人のなら着付けられても自分のは不安だったのです」
「大丈夫。お姉さんに任せて。さ、わたしの部屋で着替えれば良いわ。丁度、明日出社するので、着物を着て行こうと思って着物掛けを出したところだから大丈夫よ」
 姉貴はそう言って千反田を自分の部屋に連れて行った。俺は仕方なしに薬缶に水を入れてコンロに掛けた。
 その薬缶が沸いた頃だろうか、姉貴と千反田が部屋から出て来た。
「おまたせ~奉太郎えるちゃんの着替えた姿を見たかったでしょう」
「べ、別に……」
 そうは言ってみたが、どうのようなものを着たのか、見てみたかったのは悔しいが事実だった。
「じゃ~ん」
 姉貴の後ろから現れた千反田は若草色のVネックのセーターにスリムのデニムだった。確かに姉貴の服だが良く似合っていた。但し、頭がそのままなので和洋折衷という感じだった。でも悪くなかった。
「ほら、奉太郎は見惚れているでしょう」
 姉貴の冷やかしでは無いが確かに俺は千反田の姿に見惚れていた。Vネックからは豊かな谷間が覗いていたし、躰のラインがハッキリと出ていて、こんもりとした胸や豊かな腰の線が何とも眩しかった。これは姉貴は確信犯だと思った。千反田は少し恥ずかしそうな表情を見せている。
「良く似合ってるよ」
 やっとそれだけが口から出た。続きの言葉が出なく困ってると台所の薬缶のお湯が沸いたのでその場を去る事が出来た。すると姉貴が
「紅茶で良いわよね。わたしが入れるから」
 そう言ってさっさと台所に去ってしまった。居間には俺と千反田だけが残された。
「余りにも躰の線が顕なんで恥ずかしいと言ったのですが供恵さんは、これぐらいが魅力を現せていい感じだと言うものですから」
 千反田は立ったままセーターの裾を両手で引っ張っている
「今日は着物姿といい。俺にとっては嬉しい事が続くな」
「そう言って頂けると嬉しいです」
 その時だった。姉貴が銀盆に紅茶をティーカップに三杯入れて持って来た
「さあお茶でも飲んで。その後は奉太郎の部屋にでも行けば良いわ」
 その後は姉貴が海外旅行の失敗談や武勇伝を披露して千反田を大層喜ばせた。そう言えば、こいつはこの手の話が好きだったと思い出した。でも困ったのは千反田が笑うとセーターの胸が揺れる事だった。正直目のやり場に困ってしまった。
 だが姉貴は千反田の立場を判っていたみたいだった。千反田がトイレに立った時に俺に
「えるちゃん。羽織の紋が一つ紋だったわね」
「ああ、それが何か?」
「あんた鈍いわね。今日は初詣のついでにお父様の代理でお使いをしたのでしょう」
「ああ、昨年もやった」
「去年の事は判らないけど。今年は家のお使いなのに一つ紋という事はどうなのよ。紋の数が多いほど格が高くなるのよ。五つ紋、三つ紋、一つ紋の順なのよ、五つ紋は第一礼装、三つ紋と一つ紋は略礼装となるの」
「だから?」
「判らない? えるちゃんは家の公式なお使いという立場からは外されそうなのよ。もう満なら十七歳よ。昔なら十八だわ。お嫁に行ってもおかしく無い年頃よ。つまり大人という事」
「そうか。それなのに略礼装という事は……」
「まあ、えるちゃんにはアンタという存在があると知って、わざわざ顔見世しなくても良いという考えだったのかも知れないけどね。兎に角、えるちゃんは家の中でも微妙な立場に立たされていると言う事なのよ。アンタ大丈夫? えるちゃんを支えてあげられる?」
「大丈夫だ。元よりそのつもりだ」
「なら良いけどね。しっかりしなくちゃ駄目よ」
 姉貴はそう言って自分の部屋に下がって言った
「帰る時に声を掛けてね着付けしてあげるから」
 俺は姉貴の後ろ姿を見ながら改めて千反田の事を考えるのだった。
 その後、千反田が帰って来て
「供恵さんのお話、面白かったですね。思い切り笑ってしまいました」
 そう言って嬉しそうな顔をする。でも俺は今、姉貴が言った事を千反田には言えない。言えるはずが無いのだ。だから、そっと千反田を抱きしめた。柔らかい千反田の胸が俺の体で潰される。いきなり抱き締められて戸惑う千反田
「折木さんどうしたのですか?」
 そう言っていたが、やがて千反田も両方の腕を俺の背中に回した。
 新年の午後の陽が柔らかく差し込んでいた。
 この次は二人でやどかりの生体模倣でもしようか。


                 <了>

氷菓二次創作「奉太郎の決意」

 その電話は、暮れも押し詰まった十二月の三十日に掛かって来た。受話器を取り上げると電話の主は千反田だった。
「もしもし、折木さんですか?」
「はい、折木ですが……千反田か?」
「あ、はい。良かったです」
「どうした。何かあったのか?」
 昨年は元旦の夕暮れに一緒に初詣に荒楠神社に出掛けた。千反田の家の使いがてらとは言え元旦から一緒だったことは間違いない。その時の事件については、改めて語る事も無いだろう。
「いえ、特別な事は無いのですが、元旦は何かご用事がありますか?」
 昨年に続いて家の使いのついでに一緒に荒楠神社に初詣に行かないか? という誘いだと思った。正確には今年なのだが便宜上昨年と記す。
「特別な用事はないぞ。やどかりの生体模倣をする以外はな」
「やどかりの生体模倣ですか。わたしも一緒にしても良いですか?」
「は!?」
「冗談です。まさか折木さんのお宅で、一緒にそんな事をする訳には行きません」
 千反田がこんな冗談を言うのは珍しいと思った。
「実は、昨年に続いて一緒に荒楠神社に初詣に行って頂けないかと思いまして」
「ああ、いいぞ。どうぜ暇だからな。時間は昨年と同じか?」
「いいえ今年はお昼ごろなんです」
「昼ごろ? お昼には来客の相手をしなくてはならないのでは無いか?」
「今年は少し様子が違うのです。詳しい事は電話では……」
 何か事情がありそれが千反田家の事柄に絡むなら電話口で軽々しく言えはしない。
「判った。事情は当日訊こう」
「ありがとうございます。そうして頂けると助かります」
 電話の向こうで千反田が頭を下げた気がした。結局、お昼ごろの時間を約束して電話を切った。待ち合わせ場所は昨年と同じ荒楠神社の石段の下にした。その方が判り易いからだ。昼なら昨年よりも人の数は多いに違いない。下手な場所で待ち合わせをしたら間違いが起きる可能性もあると思ったからだ。
 年が開け元旦となった。今年は姉貴が家に居る。二日から仕事だからだ。海外相手なのでのんびりと正月を過ごす時間は無いそうだ。俺は姉貴の冷やかしの言葉を背に受けて家を後にした。
 荒楠神社まではゆっくりと歩いても二十分ぐらいだ。通常なら十五分もあれば到着する。正直俺は、今年は千反田がどのような着物姿で現れるか楽しみだった。
 荒楠神社に到着して腕時計を確認すると約束の時間までは少し間があった。今日は穏やかな天気で風も無いので幾分か楽だった。しかし、そこは神山。東京などよりかなり気温が低いのも事実だった。トレンチコートの襟を立てて寒さを避ける。
「お待たせしました」
 その声に振り返ると、千反田が立っていた。薄いピンクの地に白い梅の花が描かれた着物に朱の帯をしていた。帯にも柄があるみたいだが判らなかった。そして昨年と同じように羽織を着ていて、その色地は明るいグレーに僅かに赤みがかった感じの色地で、後で霞色と言うのだと知った。柄は特になく恐らく千反田家の紋が入っていて所謂「紋付き」と呼ばれるものだった。
 シックな感じながらも着物の柄が映えて千反田の存在を一際輝かせていた。袖は振り袖ではなく普通の長さの袖だった。今年も着物姿の千反田を見る事が出来て嬉しかった。見惚れるという言葉があるなら、それだと思った。
「明けましておめでとうございます。今年も宜しくお願い致します」
 千反田がそう言って頭を下げる。俺も
「おめでとうございます。こちらこそ宜しくお願い致します」
 そう返事をする。
「今年の着物も良く似合ってるな」
「ありがとうございます。今年も小紋です。江戸小紋なんですよ。似合っているかどうか自信が無かったのですが、折木さんに褒められて嬉しいです」
 アップした髪のせいでハッキリと見えるようになったうなじが本当に色っぽく、真っ赤に染まっていた。
「あまり見つめないで下さい。嬉しいのと恥ずかしいので混乱してしまいます」
 千反田はそう言っていたが満更でもなさそうだった。
「その酒を持とう」
 そう言って千反田が下げていた包を受け取った。
「ありがとうございます。何だか時間以外は昨年と同じですね」
 千反田はそう言ってニコニコしている。一緒に石段を登りながら
「来客の相手はしなくても良いのか?」
 俺は普通の質問だと思ったのだが千反田の口は重かった。
「そうですね。結果だけ見れば何でも無いのです」
「どういう意味だ?」
「元旦の来客ですが、午前中は親戚が中心です。父は親戚には、わたしが家業の農業を継がないと知らせました。だから新年の挨拶でもその事に触れる者はいません。でも午後からは親戚以外のお付き合いのある方が中心です。噂を聞いて必ずその事に話しが及ぶと思うのです。そこに、わたしが居たら両親も困る事になります。だから家のお使いという用事で出かける事になったのです。わたしがその場に居なければ、その事に触れる事も少なくなるとの考えなんです」
 そうか、何か事情がるとは思っていたが、正式な後継者なら来客の相手もしなくてはならないが、そうで無ければ、その場に居る必要は無いという事だ。しかし、それで良いのだろうか? それが正しいのだろうか?
「父はわたしの事を考えての事だと思っています」
 理屈ではそうだろうが、俺は何かスッキリしないものが残ったのだった。 石段をゆっくりと登って行くと千反田が酒を持っていない方の手に自分の指を絡ませて来た。
「もし折木さんが転んだりしたら大変ですから」
 頬を赤くしてそんな事を言う。俺は千反田がいじらしくなってしまった。『お前は跡継ぎでは無いのだから家で来客の相手をしなくても良い』と暗に言われたのと同じだからだ。
しっくかりと指を絡め合う。出来ればこんな家の用事の物なぞ放り出してこの石段のお踊り場で千反田を抱き締めたかった。
「折木さん。本当にこれからも宜しくお願いします」
「当たり前だろう。どんな立場になってもお前に変わりは無い。俺は相手の立場で付き合いを変える人間じゃ無いと自分では思っている」
「それは判っていたのです。信じていました。でも実際にこう扱われると……」
 恐らく千反田の心にはポッカリと穴が開いてるのだろう。俺の力でそれを少しでも埋められれば良いと思った。
 石段を登りきり拝殿に向かう。二拍二礼をして参拝を済ませる。千反田は色々な事をお願いしたのだろう。俺は今までは特に考えなかったが、今年は違った。今年は千反田の行く末に幸あれと祈ったのだった。
「今までは色々な事をお願いして来ましたが。今年は一つだけにしました」
「ほう何をお願いしたんだ?」
 俺がそう尋ねると千反田は顔を真赤にして
「それだけは言えません」
 そう言って首を左右に振った。うなじ迄が真っ赤になってるのも良いと思った。
 その後社務所に趣き、新年の挨拶をした。これは昨年と同じだったが、来た時刻を見て十文字には大凡の事が判ったみたいだ。
 十文字は俺だけを呼び寄せると小声で
「折木くん。えるをしっかり支えてあげてね。あの子には君しか居ないから」
 俺にそう言った。やはり事情が判っていたのだ。俺も
「判った。元よりそのつもりだ」
 そう言って自分の考えを述べた。
 帰りの道すがら
「このまま帰れないのだろう。何処かで時間を潰して行くか」
「そう出来れば助かります」
「じゃあウチに来るか? 今日は親父も姉貴も居るがな」
「供恵さんがいらっしゃるのですか、それにお父様も居るならご挨拶したいです」
 千反田は嬉しそうに言う。
「お前はウチの姉貴をどう思っているんだ?」
「そうですね。とても聡明で広い考えの持ち主で素敵な方だと思います。あのような方なら姉になって欲しいです」
「そうか、お前は弟か姉が欲しかったんだっけな」
「はい。供恵さんなら最高です」
 そんなものか。俺にとっては悪夢だがな。
「折木さん寒いですね」
 千反田がそう言って俺の左腕に絡みついて来た。最初はそのままにしていたが、その腕を解いて、千反田の肩を抱いて自分の方に引き寄せた。
「おれきさん……」
「千反田。俺は微弱な力しか無いが、お前を守りたいんだ。どんな事があってもな」
 それを聴いた千反田は最初は驚いて俺を見つめていたが
「嬉しいです! わたしも、この腕を放したくありません」
 それは俺も同じ気持ちだった。誰も通らない道の影に二人で行き、千反田の華奢な躰を抱き締めて、そっと唇を重ねた。二人の上空には冬晴れの空が広がっていた。

                   
                     <了>

氷菓二次創作「授乳に関する一考察」

 俺と千反田もとい、えると一緒になって二年が過ぎようとしていた。える自体は千反田家の本業である農業そのものは継がなかったが、旧家としての千反田の家は継ぐことになった。父親の鉄吾さんの考えでは、えるを千反田の軛から解き放して自由に人生を過ごして欲しかったみたいだが、肝心の後継者が見つからない。それはそうだと思う。江戸の初め頃からこの地方を納めていた千反田家という大きな存在を簡単に継ごうという者が見つかるはずもなかった。
 現在は形だけだが、俺が養子に入り千反田家を継いでいる。千反田家の用事などは主に鉄吾さんが行っているが、常に俺が帯同している。所謂顔を繋ぐということだ。そのうち俺が表に出ることになるのだろう。
 その俺達夫婦に待望の第一子が誕生した。長女で名を「めぐみ」と名付けた。えるは乳の出も良く母乳で育てることにした。実はそのことで意外な一面を発見してしまったのだ。
 それは授乳にあった。普段の千反田家の家の中はえるの母親と祖母、それにえるとめぐみと女性しか居ない。朝夕はそこに俺と鉄吾さんが加わる程度だ。だからと言う訳ではないが、めぐみがお腹を空かせると所構わず授乳をするのだ。
 ご存知の方もいると思うがえるは決して胸の小さな方ではない。むしろ大きい方だと言える。誰かが「隠れ巨乳」だと言ったが、正にそうだった。その点では非常に好ましかったのだが、出産して授乳するようになると乳が張って今までよりかなり大きくなっていた。それを家の中だと所構わずに出すのだ。
 それが悪いという訳ではない。家族しか居ないのだから我が子がお腹を空かせれば授乳するのは当たり前のことだ。白くて大きな乳房に娘が吸い付き、ごくごくと飲んでいる姿は親としても好ましいのは言うまでもない。
 それを微笑みながら家族が見ている……それも理解出来る。だがだ、俺の中に何かモヤモヤしたものが湧いているのも確かなのだ。めぐみが泣くとえるはすぐに白く大きな乳房をポロッと出して授乳する。それが当たり前なのだが、何かそこに釈然としない感情が芽生えているのも事実なのだ。当然、えるは俺がそんな感情を持っていることなぞ知りはしない。
「どしたのですか奉太郎さん。最近何かお悩みですか? 何か悩みがあるなら仰って下さいね。夫婦の間に隠し事は無しですよ」
 えるは授乳しながら俺にそんなことを言う。別に隠しごとをしてる訳では無い。何か判らないものが俺に湧いてるだけなのだ。
「昼間はめぐみのものですからね」
 俺の視線をどう勘違いしたのか、意味あり気な表情を浮かべた。
「別に、それはそれで楽しみだけど、そうじゃない」
 俺は何を言っているのだろうか……。
「でもこうやってお腹を痛めた子が、すくすくと育って行くのを見ると早く二人目も欲しくなりますね」
 えるは微笑みながらそんな事を言う。確かに二人目を作るのは吝かではない……そうじゃない! そうでは無いのだ。そこまで考えて、この道では先輩に当たる里志夫婦が思い当たった。
 それから暫くして里志夫婦が遊びにやって来た。伊原はえるとめぐみと楽しそうに話してる。二人には沙也加という女の子が居るのだが、今日は保育園に行っていて今日は連れて来ていなかった。俺は里志を別室に呼び出した。
「どうしたんだいホータロー。二人だけで話なんて何かの悪巧みかい」
 奥の座敷で二人だけになると里志はそんな冗談を言った。
「悪巧みではないが女性陣が居ると話しずらい事なんだ」
「へえ、それは何かな。ホータローがそんなことを言うなんて珍しいね」
「実はな……と言うよりお前の時はどうだったのか教えて欲しいんだ」
「僕の時?」
「ああ、確か沙也加ちゃんも母乳で育てたんだよな」
「そうだよ。尤も最初の半年ぐらいかな。それからは混合栄養で、一年を過ぎる頃は人工栄養に切り替えたけどね」
「そうか、それでも最初の半年は母乳だけだったんだな」
「ああ、そうだよ。それが?」
「ああ、伊原もとい奥さんは主に何処で授乳していた?」
「場所? そうだね。家の中なら何処でもだね。仕事場が一番多かったかな。仕事しながら授乳させていた事もあったからね」
 そこまで聴いて福部家は姑と一緒に住んでる訳では無かったと思った。でも確か漫画家の井原花鶴にはアシスタントが居たはずと思った。
「仕事場でも授乳していたのか?」
「ああ、アシスタントは女性だから別に気にもしなかったよ。はは〜ん、大体判ったよ。ホータローは千反田さんが何処でも授乳するんで、そのあたりがモヤモヤしてるんだね」
 図星だった。こいつも経験があるのかと思った。
「僕の場合は昼は会社に行ってるから知らないけど。実家でも平気で晒していたよ。摩耶花も授乳の時は凄く大きく張っていたからね。僕も嬉しかったけど本人が一番喜んでいたかな」
 そんなものなのか。それで良いのか……。そんな思いの俺に里志は
「まあ千反田さんは元からある方だからホータローも余計に気にかかるんだろうけど、誰も変な目で見てはいないって。心配無用だよ」
 そうだろうか……まあ普通はそうか。
「ホータローのそのモヤモヤは嫉妬だよ。嫉妬から来るものだと思うよ。自分だけの千反田さんであって欲しいという思いから来る」
 嫉妬と言われ妙に腑に落ちた感じがした。
「お前は感じなかったのか?」
 俺の質問に里志はニヤッと笑いながら
「僕の場合は既に摩耶花は多くの人に自分の才能を分け与えていたからね。読者にとって摩耶花こと井原花鶴は読者のものでもあったからね」
「お前はそれで納得したのか?」
「納得も何も、僕は売れっ子漫画家を娶る事に納得したのだから」
 そうか、里志の場合はまた俺とは違っていたのかと思った。
「千反田さんだって、来客中は自分たちの部屋か何処かでするんだろう?」
「まあ、そうだが」
「なら何も問題はないじゃや無いか。恐らく千反田さんは誇らしい気持ちもあると思うよ」
「誇らしい?」
「ああ、だって子供を生むという事は連綿と続いて来た家系を絶やさないことだからね。それこそ、千反田家のような旧家にとっては、大事な事なのだと思うよ」
「そうか」
 里志の考えを聴いて納得した自分が居た。三人が居る部屋に帰ると伊原もとい里志の奥さんが
「ふくちゃん。ちーちゃんたちは二番目の子を作るそうだから、わたし達も頑張りましょう!」
 それを聴いた里志は苦笑いをするのだった。
 それから二年後に我が家に長男が誕生した。

                                                                             <了>

                                  

「駆け抜けるもの」

 キスしてしまった!
 しかも夫以外の人と……。その人とは仕事での付き合いは長かったが、一度でもその気になったことなんて無かった。それなのに気がつけばクスをしていた。
 思えばキスなんて久しぶりで、この前のことなんか何時したのか思い出せない。ファーストキスのことなら覚えているのだけど、夫と最後にキスした日なぞ思い出せない。
 尤もキスどころか、夫婦の営みさえご無沙汰している。どうやら夫は、私が子供を産んだあたりから、私を「おんな」ではなく「母親」として見始めたようで、しかも「乳臭い」とか言って敬遠するようになってしまった。
 私も、それなら面倒くさくなくて良いわ、と考えてそのままにして来た。だからお互い様なのだから夫ばかりを責められない。夫は私が授乳している姿を見ても何も思わないらしい。平時より1.5倍は大きく張った乳房を見ても何も思わないらしい。まあ以前から人並みぐらいはあったから、今更なのかも知れないけどね。
 夫婦の営みは全く無くなった訳ではなく、それを忘れた頃にしてはいた。まるで盆暮れの行事のように……。
 でもそれもここ数年は無い。だから二番目の子が出来る訳もなく、可哀想だがウチの子は一人っ子になってしまった。そのことを夫に言うと、
「俺も一人っ子だから」
 そんな答えが返って来た。駄目じゃん。だから兄弟が欲しいとか思わなかったのか尋ねたら
「そうだな……小さい頃だけだな。大きくなってからは思ったこと無いな。大丈夫、すぐ慣れるから」
 慣れる慣れないの問題では無いと言ったが駄目だった。だから二番目の子は諦めた。そんな矢先だった。私は産休が明けると職場に復帰した。情報処理の分野で会社は私を必要としてくれていたからだ。夫だけの収入では心許ない事もあった。
 以前からコンビを組んでいた彼と再びコンビを組んだ。仕事の相性としては最高でお互いをリスペクトしていて、お互いの先を読みベストな進路を採用していた。だから男女の感情なんて入り込む余地なぞ無かったのだ。現に彼は妻子があり良く写真を見せてくれていた。
 その日は仕事の都合で残業することになってしまった。私は夫に
『残業で遅くなるから祐介を保育園に迎えに行って欲しい』
 と連絡を入れた。夫の会社は基本的に残業の無い仕事なのでOKの返事を貰った。だから安心して仕事に打ち込んでいた時だった。
「腹減らないか、何か買って来ようか?」
 彼のその言葉に時間を確認すると、我が家での夕食の時間が過ぎていた。
「もうこんな時間なんだ」
「ああ、何が良い?」
「コンビニ?」
「そうだね」
「サンドイッチか何かで良いわ。コーヒーなら廊下の自販機で挽きたてが飲めるし」
「そうだな。じゃ買って来るよ。量は?」
「小さなパックなら二個で大きなのなら一個で良いわ」
「判った。じゃ行って来る」
 ドアを締めて行く彼を見送りながら、無意識に夫と比べていた。私の母は県立高校の数学の教師で、私を産んだ後半年の産休で職場に復帰した。バリバリのキャリアウーマンの走りのような人で私にも同じ事を求めた。
 それに従った理由では無かったが、私も産休が明けると直ぐに復帰した。会社もそれを歓迎してくれた……とその時は思った。
 それが間違いでは無かったが、それ以上でも無かったのは復帰して判った。要するに会社とはそういうものだと理解した。
 廊下に出て自販機でコーヒーを買う。私はレギュラーで無糖。ついでに彼の分も買う。彼はアメリカンが好みだった。二杯を煎れて戻ると直ぐに彼が帰って来た。まあ、その時間を見計らって買いに行ったのだが……。
「BLTサンド買って来たよ確か好きだったよね」
「ありがとう。よく覚えていたわね」
「何年付き合っていると思うんだい。旦那より長いんだぜ。まあ、俺の方もそうだけどな」
 そうなのだ彼とコンビを組んだ年数は夫婦の年月を消費した月日を上回る。それは彼も同じだと言ったのだ。
 隣に座りお互いのPCのデータを確認しながらサンドイッチを口にしてコーヒーで流し込む。彼が私のPCのデーターを覗き込み、やはり買って来たお握りを頬張りながらアメリカンコーヒーで流し込んで行く。その様を見て、彼と自分は似たもの同士だと感じた。こんな事は今まで感じた事は無かった。何故だろうか?
 お互い配偶者と子供を家に残してこんな都心のビルの一室でPCとニラメッコしている。客観的に見れば滑稽だ。でもの対価で生計を立てている。
「このデータだけど」
 彼はそう言って私のPCに表示されているグラフを指差した
「どうかした?」
「昨年より下がり方が激しい気がするんだけどな」
「そう?」
 私はそう言って彼を頬がくっつく程に近づいてPCの画面を眺める。彼はコーヒーを飲み終わってテーブルに紙コップを置いた。その時だった。彼の手が私の肩に伸びて私を抱いた。私も右手を伸ばして彼の肩を抱く。そしてお互いに顔を正面にして唇を重ね合った。お互いの舌が絡み合い、何かが二人の間を駆け抜けて行く。何か大事で大切なものが二人の間を走って行くのだ。物凄いスピードで走って行く。何かが満たされて行く。それが何なのか判らない。でもこれからのあたしに必要なものなのだろうとは想像がつく。多分、それは彼も同じだと直感した。やがて唇が離れた
「ごめん。そんなつもりじゃ無かったんだけど。何か衝動に駆られて」
「ううん。私も同じだったから」
「何なのだろう。あれ」
「うん。よくわからないけど、きっとお互いに足りなかったものだと思う。確信は無いけど」
「そうなのかな」
 その時はそれで済んだ。それ以来彼とはキスをしていない。変わったことと言えば、あれから、矢鱈に夫が私を求める事が多くなった。
「どうしたの? ご無沙汰でさっぱりだったのに」
「うん。ここ所、物凄く君を抱きたいんだ。自分でも驚いている」
 週末は必ずだし、平日でも仕事が早く終わった日などは、子供を寝かしつけると早々とベッドに潜り込む
「授乳してた時さ、物凄く大きく張っていたじゃない」
「あら関心ない感じだったじゃない」
「あの時は母性を感じてたんだけど、今思えばもっと触っておけば良かったと思ってさ」
「じゃあまた大きくさせる?」
「うん」
 その後私は第二子を身ごもった。そうしたら彼の奥さんも子供を身ごもったそうだ。きっとお互いの夫婦の寝室で同じような会話がなされたのだと思っている。

                                              <了>

「噺家ものがたり」第13話 目指すもの

 落語関係の雑誌はかっては色々と出ていた。月間「落語」季刊「落語ファン」、月間「演芸」とかあったがどれも休刊か廃刊となってしまっていた。今では不定期に「噺の友」という雑誌が刊行されるだけとなってしまっていた。
 世間では落語ブームとか言われているが、浅いブームなのが判る。かってはコアなファンがそれらを買い支えていたのだが、今のファンはCDも買わず、ネットで済ませてしまう。
「ま、録音したのは高座を記録したものでは無く、その時の会場の雰囲気を高座ごと記録したものに過ぎませんですからね」
 柳生は「まさや」で酒を口にしながら雅也の疑問に答えていた。雅也が出したのは、先日半年ぶりに刊行された「噺の友」だった。
 A4のその雑誌に先日柳生が末広亭で演じた「たちきり」の評論が載っていたのだった。内容は柳生の高座を高く評価しており「以前は只旨いだけの噺家だったが、復帰してからは噺に凄みが加わった」と評されていた。
「それほどじゃありませんよ」
 凄いと褒める雅也に対して柳生は謙遜する。いや本当の気持ちなのだろう。彼の目指す噺は未だ先にあると考えているからだ。
「今日はふぐの刺身を食べて戴きます」
 雅也はそう言って柳生の目の前に網の目の白い皿に綺麗に並べられたふぐを出した。
「冬と言ったらふぐですよね。落語にもふぐを扱った噺があるんですよ」
 柳生の言葉に雅也が反応した
「へえ~。どんな噺なんです?」
「ある旦那の所に出入りの幇間が尋ねて来るんです。丁度ふぐが手に入った所なので食べて行けと言うのですが、お互い万が一の事があれば怖いので誰かに食べさせて大丈夫なのを確認してから食べようと話しが纏まります。そこへ乞食がやって来ます。一旦は追い返したのですが、呼び止めて例のふぐ鍋を与えます。
 幇間が乞食の後をつけて行き、様子を見るとイビキをかいて昼寝しているんです。それを見て大丈夫だと思った旦那と幇間は食べ始めます。食べるとやはり旨いのでたちまち食べ尽くしてしまいます。
『美味かった』と言っていると例の乞食がやって来て
『先ほどのものは、すべてお召し上がりになりましたでしょうか?』と訊くので
『全部食べてしまったからもう無い』と答えます。すると乞食は
『お二人とも大丈夫そうですね。それならユックリと食べさして戴きます』
 と落とす噺なんです。昔は中毒になることが多かったですからね」
 柳生の噺を聴いて雅也は
「ふぐはそれまで食べたものによって毒が出来るんですよね。だから毒にならない餌を食べて育ったふぐは無毒なんですよ」
 思いがけない雅也の言葉に柳生は
「ホントですか! じゃあ今日のふぐは?」
「今日のは養殖です。でもこれには毒があります。そもそも無毒のふぐでも肝は出してはならないと決められていますからね。ふぐの内蔵の管理が厳しいのは同じなんです。でも天然と養殖では身の硬さが違うんです。当然養殖の方が柔らかいのですが、面白い事に身の柔らかい方を好む方もいらっしゃるですよ」
 雅也に言われて刺し身を口に運んで見ると確かに天然に比べると少し柔らかいが、返って旨味が口に広がるのが速いと感じた。
「捨てたものじゃ無いでしょ」
 確かにそう感じた。
「コリコリした食感だけを楽しんで、旨味を感じる前に飲み込んでしまう人もいますからね」
 確かに食感を第一にして、それだけを大事にする人も居ると柳生は思った。
「大体、日本では鮑の水貝のコリコリ感が良いとされていますからね」
 雅也の言葉に頷く柳生だった。
「神山さんだったら、どう食べるでしょうかね?」
 柳生は今日は来ていない神山の事を思った。
「そうですね。黙って出したら気がつかないかも知れませんね。天然のふぐでも身の柔らかいのはありますからね」
 それを聴いて柳生は落語も演者が色々と考えて演じても、受け手の客が、それを感じられ無ければ何もならないと思った。全てに於いてそうだが、特に落語と料理は似ていると感じた。
「私は料理人として、理想はお客さん一人ひとりに合わせた料理を出せればと思っているのですが現実には難しいです。師匠は理想とする落語の形ってどんなものなのですか?」
 雅也は一度柳生の追求する噺の形を訊いてみたいと考えていた。恐らく神山ならそんな事は訊かないであろうとは思った。何故なら、数多の名人を見て来た彼ならそれぞれが違った特徴を持っていて、そのどれもがオリジナルに溢れており、誰かの二番煎じでは無いことを良く理解しているからだ。
 落語関係の雑誌の編集者として神山はそれだけの資質を持っていると柳生は考えていた。
「そうですね。古典落語はどれも本当に良く出来ています。だから演じるにあたって、自分の考えて簡単に噺を変えないことですかね」
「噺を変えない?」
「そうです。良く落語は大衆芸能だからお客にウケるように変えて行くべきだ。という意見の人が居ます。間違いではありませんが、それだけでは落語が死んでしまいます。お客にウケるだけなら何も落語でなくても良い訳です。漫才でも漫談でもコントでも構わない訳です。でも幾ら爆発的にウケたとしても、それらは残りません。かっての漫才ブームの時の漫才が残っているかと問えばお判りでしょう」
 柳生がここまで己の考えを口にするのは初めてだった。
「勿論、全く変えなくても良いという訳ではありません。変えて行くべきですが、それらは良く考えて、独りよがりではならないと思っています。その意味で個人的にはお客さんの耳に心地よい噺が出来れば良いと思っているんです」
「耳に心地よいとは、深いですね」
 雅也は柳生の真意を理解したみたいだった。
「ふぐの中骨で出汁を取ってありますから、〆に雑炊作りますか?」
「ああいいですね。寒い夜にはピッタリですね」
 小料理「まさや」は静かに更けて行くのだった。
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